秋葉原の通り魔事件
2008年6月15日 寺岡克哉
6月8日の、 昼の12時半ごろ・・・
東京の秋葉原で、凄惨な通り魔事件がおこりました。
7人の方が亡くなり、10人の方が負傷しました。
犯人に対して、とても大きな憤りを感じるとともに、
事件に巻き込まれた方々には、おかけする言葉も見つかりません・・・
* * * * *
ところで・・・
すこし以前に、ある読者の方から1通のメールを頂きました。
その方によると、「自己否定」というキーワードで検索をしたら、私が昔に
書いたエッセイ27がヒットし、それで私のサイトを訪れてくれたそうです。
私も試しに、「自己否定」で検索してみました。そうしたら、ヒットの件数が
とても多いのに、エッセイ27がけっこう上位にヒットしたのです。
今は地球温暖化のことばかり考えていて、6年前に書いたそのエッセイの
ことは、すっかり忘れていました。
しかし、私のまったく知らない間に、エッセイ27を結構たくさんの人に読ん
で頂いたのかも知れませんね。とても有難いことです。私も久しぶりに、その
エッセイを読み返してみました。
最近そのような事があって、地球温暖化のことを考えながらも、「自己否定」
のことが頭の隅に残っていました。
(私にとっては)そんな状況の中で、今回の通り魔事件が起こったのです。
地球温暖化の話の途中ですが、今回の事件をまったく無視する気持ち
にもなれず、ちょっと私の思ったことを書いて置きたいと思いました。
* * * * *
なぜ、今回の事件と「自己否定」が、私の頭の中でリンクしたのでしょう?
それはエッセイ27を読んでもらうと分かるのですが、私は以前から、この
ような事件の根底には、「自己否定」が潜んでいるのではないかと感じて
いたからです。
しかも今回のケースでは、インターネットの掲示板に、いろいろと犯人の
心情が書き込まれていました。
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(以下、犯人の書き込み文は、北海道新聞6月10日付朝刊による)
俺もみんなに馬鹿にされているから車でひけばいいのか
みんな俺をさけている
勝ち組はみんな死んでしまえ
高校出てから8年、負けっぱなしの人生
日に日に人が減っている気がする
大規模なリストラだし当たり前か
作業場に行ったらツナギが無かった 辞めろってか わかったよ
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やはり犯人は、「自己否定感」というか、「とても強いコンプレックス」に
苛(さいな)まれていたようです。
格差社会・・・
正規雇用と非正規雇用・・・
勝ち組、負け組・・・
リストラの恐怖・・・
たしかに、高度経済成長期やバブル経済のころに比べると、いまの日本は、
「自己否定が暴発しやすい世の中」になっていると思います。
* * * * *
また犯人は、その親が教育熱心で、ずいぶん「勉強」をさせられていたよう
です。中学のときは成績優秀で、高校は進学校に入学しました。
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親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり
勉強させられてたから勉強は完璧
親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ
俺が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ
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しかしながら、高校に入ってからは、勉強の成績が低調だったようです。
そしてその頃から、親との関係が悪くなり、家庭内暴力を起こしていたと
いう報道もあります。
私はここで、エッセイ134で書いた「100点主義」というのが、大きく関係
しているような気がしてなりませんでした。
たぶん犯人は、私が言うところの「100点主義」を、親から叩(たた)き込ま
れたのです。それで「自己否定」が、どんどん強くなって行ったのでしょう。
エッセイ134に書いていますが、この「100点主義」は、べつに学校の成績
だけに限ったことではありません。
容姿が悪い・・・
性格が歪(ゆが)んでいる・・・
経済力がない・・・
就職できない・・・
異性にもてない・・・
結婚できない・・・
離婚暦がある・・・
子どもが出来ない・・・
などなど、ありとあらゆる事柄に付いて回ります。
(昔からそうだったのかも知れませんが)とくに現代の日本では、このような
「100点主義」が、社会全体に蔓延しているように感じます。
そしてそれが、いまの日本で自己否定的な人間が増えている、一つの原因
になっていると思うのです。
* * * * *
しかしながら、もちろん、犯人の「身勝手で自制心のなさ」というのが、
今回の事件が起こった最大の原因でしょう。
以下、とくに最後の文は、犯行直前に書かれたものです。
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もっと高揚するかと思ったら、意外に冷静な自分にびっくりしてる
中止はしない、したくない
秋葉原で人を殺します
時間です
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私は、この文を見たとき、ゾッとして身の毛がよだちました。
そして、エッセイ125で書いた「悪に対する根源的な恐怖」というのが、
この犯人には全く欠落していると思わざるを得ませんでした。
「殺人なんか、とても恐ろしくて出来ない!」という、心の底から湧き上がって
くる恐怖。
いざ、それを本当に実行しようとすると、体がふるえて動かなくなくなる(体の
自由が利かなくなる)ほどの、心理的なストッパー。
それは「無意識」に働くものですが、しかしながら、ものすごい強制力をもって
います。
つまり「ふつうの人間」であれば、いくら自分の境遇が悪かったとしても、殺人
など(体が言うことを聞かなくて)なかなか出来るものではないのです。
そのような、いわゆる「人の心」というものが、この犯人(に限らず、過去に
同じような事件をおこした人間たち)には、まったく欠落しているように思えて
なりません。
* * * * *
たとえば、
良い家庭環境で生まれ育った人ならば、
そして、住んでいる社会環境が良ければ、
上で話した「人の心」というのは、本人が意識しないうちに、自然に身に
付いているものです。
だから、良い環境で育った人は、「人の心」は先天的に備わっているもの
だと、本当にそう実感していることでしょう。
しかしながら・・・
幼いときの情操教育に不備があったり、
いじめ、虐待、差別などを日常的に受けていたり、
さらには、社会が混乱してテロが多発したり、戦争が起こったり・・・
そのような悪い環境(不幸な環境)で育った場合は、「人の心」が形成され
ないことが、事実として少なからずあるのでしょう。おそらく人間とは、その
ような生物なのだと思います。
つまり「人の心」というのは、先天的に備わっているのではなく、後天的
に獲得するものなのです。
だから人類社会では古来より、宗教、思想、道徳、倫理などを通して
「人の心を育成すること」に、とても大きな労力をそそいで来たのでしょう。
人間をまったく放って置いて、自然に「人の心」が身に付くはずがありま
せん。
「人の心」とは、適切な環境と教育によって、培(つちか)われるものなの
です。
* * * * *
ところで、私の体験から感じたこととしてエッセイ92に書きましたが、
「人の心」を生じさせ、それを陶冶(とうや)して行くこと。
つまり「人の心の育成」には、かなりの時間が必要です!
10年や20年ぐらいの時間がかかるのは当たり前で、「心の陶冶」という
ものは、本来は一生をかけて続けるものです。
さらには、どのような心を育てれば良いのかという指針(たとえば慈悲
や隣人愛などの思想)や、適切な指導を受けることも必要でしょう。
しかしながらエッセイ148で書きましたが、
現代の日本は、「人の心を育成すること」に関して、意識が低すぎる
ように思います。
たとえば「学力の育成」に比べれば、「心の育成」に関しては、親を含めて
社会における認識が、ほんとうに低いと思います。学力ばかりを重視する
あまり、「心の育成」が蔑(ないがし)ろにされていると言っても、過言では
ないかも知れません。
そしてそれが、今回のような事件がおこる背景になっているのは、おそらく
間違いないでしょう。
たとえば以前にも、医者を目指して猛勉強をさせられていた子どもが、家族
を殺してしまうという事件がありました。そのような事件を、私は2件ほど記憶
しています。これなども、上とおなじ背景によるものと思われます。
社会的なストレスが高まっている昨今・・・
もちろん、社会的な格差を是正したり、社会的な弱者を保護するなど、
「住みよい社会」を作っていくことが大切です。
しかし現代社会では、「ふつうの良識」というのが持てない「身勝手な人間」
というのも、やはり増えているように感じます。
その証拠に、
学校の給食費を払わなかったり
学校の教師に、理不尽な要求を付きつけたり
救急車をタクシー代わりに使ったり
医師や看護師に、暴力をふるう患者がいたり
そして、企業のトップや官僚による、不正、汚職、食品や商品の偽装。
さらには、発展途上国の貧困層の人々よりは、よほど良い暮らしをしている
のに、
自分の子どもに食事を与えず、餓死させたり・・・
虐待して子どもを殺したり・・・
生まれてしまった子どもを、トイレに捨てて殺したり・・・
ちょっとしたことで自暴自棄になり、あるいは大した理由でもないのに逆上
して、簡単に人を殺したり・・・
これらはすべて、「人の心の育成」に手を抜いてきたツケなのでしょう。
もうそろそろ、「人の心の育成」に、社会全体が本気になって取り組まなけ
れば・・・
このままでは、同じような事件の繰り返されることが、避けられないような
気がしてなりません。
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