「悪」に対する根源的な恐怖
2004年7月11日 寺岡克哉
日々のマスコミ報道を見ていると、たいした理由でもないのに、人を傷つけたり殺し
たりする事件が後を絶ちません。
「悪口を言われた!」
「自分のプライドが傷つけられた!」
「酒を飲んで口論となり、カッとなった!」
「遊ぶ金が欲しかった!」
そのような簡単な理由で、傷害や殺人を犯しています。
しかも注意してマスコミ報道を見ると、そのような事件を起こすのは10代後半か
ら20代前半の若者だけに限らず、小学生の子供から60代の高齢者までいます。
つまり暴走しやすい若者だけが、そのような事件を起こしている訳ではないの
です。
「簡単な理由で傷害や殺人を犯す現象」は、子供から中高年まで、全ての世代に
広がっているのです。
なぜ、このような現象が今の日本で起こっているのでしょうか?
それは例えば、就職難やリストラ、年金問題などで社会不安がつのり、自分の将
来に希望が持てなくなった。
あるいは、「自我の肥大化」によって、怒りや屈辱に対する辛抱や忍耐力が低下
した。そして同じ理由から、相手の気持ちを考えたり、相手を思いやる能力も低下
した。
またあるいは、「生」や「死」に対する観念が希薄化し、「命の尊さ」というものが
理解できなくなった。
等々、いろいろな理由が考えられるかと思います。
しかし今回は、それらとはちょっと違う視点から考えてみたいと思うのです。
それは、「悪に対する根源的な恐怖」が希薄になっているのではないか?
という視点です。
たとえば私は、「殺人」をとても恐ろしい行為だと感じています。
もしも私が、いざ本気になって人を殺そうと考えたら、心の底から身の毛もよだつ
ほどの「恐怖」が湧き起こってきます。
それは例えば、
「いくら人を殺しても、あなたは絶対に罰せられることがない!」とか、
「それどころか、一人殺すごとに1000万円の報奨金を与えよう!」
「そして、あなたの身の安全も確実に守ってあげよう!」
などと国や政府が完全に保証したとしても、殺人など絶対に犯す気持ちが起こらな
いほどの恐怖です。(だから、刑罰や復讐が怖くて、人を殺すことが恐ろしいのでは
ありません。)
「人なんか殺したら、私はおしまいだ!」
「そんなことをしたら、自分は一生赦されないし、一生後悔し続けるだろう。」
「もしも殺人を犯してしまったら、私も生きてはいられない!」
というような、心の奥底から感じる、「生理的」とも言えるような恐れや嫌悪感。その
ような恐怖が私を襲うのです。
簡単な理由で人を殺してしまう人間は、このような「悪に対する根源的な
恐怖」が欠落しているのではないでしょうか?
* * * * *
ところで、「悪いことは悪い!」という心の底からの実感は、論理的な議論や
考察によって得られるものではないと、今の私は考えています。
というのは、
なぜ、人を殺してはいけないのか?
なぜ、人を傷つけてはいけないのか?
なぜ、姦淫をしてはいけないのか?
なぜ、人を虐待してはいけないのか?
このようなことを、世界中に存在するすべてのケースについて、論理的に矛盾なく
説明できる訳がないからです。
たとえば、
「人を殺すことは悪いのに、なぜ戦争をすることは認められているのか?」とか、
「目の前で家族が殺されそうになったり、自分自身が殺されそうになっても、相手
を殺してはいけないのか?」
というような矛盾が、すぐに出てしまうからです。
殺人、傷害、強姦、虐待などに対して、心の底から感じる、言いようもない嫌悪感
や恐怖。
「人を殺すことは恐ろしい!」
「人を傷つけることは恐ろしい!」
「強姦をすることは恐ろしい!」
「人を虐待することは恐ろしい!」
「そのような恐ろしいまねは、私には絶対にできない!」
「そんなことをしたら、全ておしまいだ!」
このような「悪に対する根源的な恐怖」は、論理的な理由も根拠もなく、心の
奥底から強制的に、しかも自動的に感じさせられるのです。
それはたぶん、自分の心の奥底に存在する、善、愛、良心、仏性、神性など
が無意識的に作用して、そのように感じさせるのだと思います。
目次にもどる