生きる目的 2005年9月11日 寺岡克哉
「生きること」に悩み苦しんでいる人は、「生きる目的なんかない!」とよく言い
ます。
しかし、本当にそうでしょうか?
じつは、「生きる目的」を持っているからこそ、いろいろと悩み苦しむのではない
でしょうか?
私は、そのように思うのです。
自分の望み、希望、夢、実現したいこと、実現したい状況や環境・・・
つまり、「自分がそのようになりたい!」という「目的」があるからこそ、自分が置か
れている今の現状に満足することができず、いろいろと悩み苦しむのではないで
しょうか。
だから、生きることに悩み苦しんでいる人は、すでに「生きる目的」を厳然と
持っているのです!
たとえば、もしも「生きる目的」を何も持っていなかったら、衣食住などの「生物学的
な生存条件」さえ整っていれば、悩みや苦しみなど起こり得ないはずです。
ゆえに「悩み苦しむこと」そのものが、人間としての「生きる目的」が存在している
ことを、明確に証明しているのです。
しかしながら、その「生きる目的」が具体的に何なのか、悩み苦しんでいる本人に
は分からないのでしょう。それでイライラしたり、やけになったりするのではないでしょ
うか。
というのは、「このままの自分ではいけない!」という強い思いがあるのに、具体的
に自分がどうすれば良いのか分からないのは、たいへん辛いことだからです。
* * * * *
ところで「自分さがし」というのは、実はそのような自分の「生きる目的」を、具体化
する作業なのではないでしょうか?
しかしながら、
「これが私の生きる目的だ!」
「このために、私は存在しているのだ!」
と、自分自身でしっかりと把握し、納得することは、なかなか難しいのではないか
と思います。とくに10代や20代の若い人には、なおさらでしょう。
それには、かなりの長い年月と、多くの人生経験が必要なのです。
たとえば、
何かの仕事に一生懸命に打ち込んでいるうちに、その仕事が生きる目的になっ
たり・・・。
恋人ができて、その人が生きる目的になったり・・・。
結婚して子供ができ、子育てが生きる目的になったり・・・。
何かの出来事に偶然に巻き込まれ、その方面で必要不可欠な人材になってしま
い、それが生きる目的になったり・・・。
あることに挫折して絶望し、その行きついた先に、自分の本当の生きる目的が
あったり・・・。
神や仏などの「大いなるもの」の存在を認識するようになり、それが生きる目的に
なったり・・・。
このように「生きる目的」とは、頭の中でいろいろと考えていただけでは、決して
分からないと思います。
あるていど人生に振り回され、時には絶望のどん底に落ちたりしなければ、「生き
る目的」というのは、なかなか明確にならないでしょう。
そしてまた、「生きる目的」とは、いくら焦ってもすぐに分かるものではないと思い
ます。
誠実に生きることを心がけ、50年ぐらい生きている内に、「これが自分の生きる
目的だったのか!」と、だんだんに分かって行くのではないでしょうか。
自分の人生の時間をいちばん多く費やしたことが、だぶん、その人の生きる目的
だったのです。そして50歳ぐらいまで生きれば、自分が何にいちばん時間を使った
のか、そして自分に何が出来、これから何をやらなければならないのかが、明らか
になるのでしょう。
「50にして天命を知る」というのは、そう言うことではないでしょうか。
「生きる目的」とは、そのようなものだと私は思います。
「オギャー」とこの世に生まれた瞬間から、「おまえの生きる目的はこれだ!」と
最初から決まっている訳では、絶対にないと思います。
もし、そのようなものしか「生きる目的」と呼ばないのならば、そのような生きる
目的は存在しないでしょう。この意味に限れば、「生きる目的など存在しない!」と
言うのは、まったく正しいと思います。
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ところで・・・ 「生きる目的なんかない!」という人には、人生に「絶望」してしまっ
た場合も考えられます。
たとえば、いじめや虐待を受けつづけ、自分の望んでいる状態や環境を実現する
ことが、不可能と思えるほどに著しく困難な場合・・・
そのような人にとっては、恐れや不安がなく、自由にのびのびと生きられること
が、人生の目的のすべてとなるでしょう。しかし、その状況がなかなか実現できない
ので、苦しみに耐えきれずに絶望してしまうのです。
あるいはまた、失恋、死別、倒産、破産などで生きる目的を喪失し、絶望してしま
う場合もあるでしょう。
とくに大切な人との死別は、絶対に元にもどすことが出来ないだけ、絶望の度合い
もたいへん大きいのではないかと思います。
このような「絶望」から救われる方法は、「新しい希望」を見つけるしかあり
ません!
しかし、いちど絶望のどん底に落ちてしまうと、なかなかそれも難しいでしょう。しか
しそれでも、「新しい希望をもつこと」によってしか、絶望から救われる方法はないの
です。
絶望のどん底にいる人には、それは絶対に無理なことに感じるでしょう。しかし
厳しいようですが、だれが何と言おうとも、それ以外の方法はありえません。
最終的な究極においては、「新しい希望を見つける」か、「死ぬか」の選択になる
でしょう。しかし「死は救いではない(エッセイ175)」ので、結局、新しい希望を見つ
けて生きるしか、救われる方法は存在しないのです。
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ところで、絶対に絶望することのない「不動の希望」というのも、あることにはあり
ます。
それが「神」です。
神を心から信仰すれば、絶対に絶望はしません。なぜなら「神」とは、そういう
ものだからです。
「神を信仰すること」=「絶対に絶望しないこと」なのです。
しかし、神の存在を疑って信仰をやめれば、生きる意味も生きる目的も喪失し、
この世のすべてに絶望してしまいます(神の不在)。「信仰」とは、そのようなもの
なのです。
絶望のどん底に落ち、「生きるか死ぬか」という人は、最後に「神」に助けを求める
のも良いと思います。
私は、絶望して自殺をするよりは、神を信仰してでも希望を持って生きる方が、
何万倍も良いことであり、価値のあることだと思っています。
(「神による救い」を得る方法については、エッセイ177とエッセイ178にまとめて
ありますので、そちらを参照して頂ければ幸いです。)
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