「救い」を得るためには 2 2005年7月17日 寺岡克哉
「救い」を得るためには、最終的に「神を信仰するしかない!」と、私は考えてい
ます。
しかし、いきなり「神を信仰しろ!」と言っても、なかなか出来るものではありま
せん。
だからまず始めに、神の存在を「頭」で理解する必要があります。「心」では納得
できなくても、その前に「頭」で納得してしまうのです。そして事実、神の存在は
「論理的に」納得せざるおえないものでした。
ここまでは、前回でお話した通りです。
* * * * *
さて、神の存在を「頭」で納得せざるおえなくなったら、いよいよ信仰によって、神を
「心」で実感するときです。
しかしながら、「神の存在」を実感するには、一体どうすれば良いのでしょう?
私はそれを、「祈り」によって実現します。
祈ることによって、信仰を深めていくのです。そうすると、神の存在が「実感」とし
て肌で感じるようになります。
しかし、私がおこなう「祈り」とは、「みんなが幸せでありますように」とか、「世界が
平和でありますように」と、心の中で唱えることではありません。
私がおこなうのは、「黙祷(もくとう)」と言われる祈りです。つまり目を閉じて、心を
無にしておこなう、無言の祈りです。
心と体の感覚を研ぎ澄まし、精神を集中させて、「神の存在」を一心に感じ取るよ
うにします。だからそれは、どちらかと言うと一種の「瞑想」に近いのでしょう。
目を閉じて、宇宙全体を包み込んでいる、絶対で永遠の「神の無限の愛」に思い
をこらします。そして、そのような「神の無限の愛」と、自分の心身が完全に一つに
なるように意識を集中させます。
そうすると、なにか優しくて暖かい「雰囲気(波動)」に、全身が包まれるような感じ
がしてきます。まるで、暖かくてやわらかい「光のシャワー」を浴びているようです。
そして、不安やイライラがなくなり、とても安らいだ優しい気分になります。
それから、頭や手足がジンジンとしてきて、体中に「生命のエネルギー」が満ち
あふれて来ます。心と体の全体に、「生きる力」がみなぎるのです。
心の中が、「愛と喜び」でいっぱいになります。
「生きることは素晴らしい!」
「この世に生まれて、本当に良かった!」
と、心の底から喜びがあふれ出ます。今ここに自分の存在していることが、嬉しく
て嬉しくて仕方がなくなります。人間も動物も植物も自然も、「この世のすべて」を
愛しく感じます。
「自分の存在は、神に認められている!」
「自分は、神に受け入れられている!」
「自分は、神に愛されている!」
という強い確信が生まれ、自信と勇気が湧きおこってきます。
永遠不滅の「神」と、自分が一つになり、「永遠の生命」が得られます。そしてつい
に、「自分は本当に救われた!」という実感が得られるのです。
このような「神の実感」や「救いの実感」は、私にとって「実在のもの」です。
本当に、私はそのように感じるのです!
だから私は、「神の存在」を心から信じられるのです。
このような実感が存在しなかったら、いくら「神の存在」を頭で納得しても、心から
信じることは出来ません。(ちなみに、昔の私がそうでした。)
(祈りによって「神の実感」を得る方法についてはエッセイ89で、「救いの実感」
についてはエッセイ176で詳しくお話しています。ぜひ、そちらも参照してくださ
い。)
* * * * *
「神の実感」は、ときどき突然に現れることがあります。
たとえば・・・
かわいい赤ちゃんや、子供の笑顔を見たとき。
心地よい風が肌にふれ、木々のざわめきが聞こえるとき。
真っ青な空や、白い雲を眺めたとき。
虫の声や、鳥のさえずりを聞いたとき。
山の向こうへ沈む夕日を見たとき。
川の流れる音や、海の波の音を聞いたとき。
月や星を眺めたとき。
などなど、そのような「偶然の幸福」に恵まれることもあります。
しかしながら多くの場合、神の実感は、「強い意思による信仰」によって得ら
れるのです。
ところで・・・ 俗世間の考えに影響され、「神の存在」に疑問を持ってしまうと、
何とも言えない「生き苦しさ」に襲われます。
神の存在を疑い、それが実感できなくなると、恐れや不安、焦燥、孤独などに
苦しめられるのです。いちど「信仰」に目覚めると、その信仰が揺らいだ時はその
ように感じます。
(これは例えば、「会社」という組織を信仰していた人が、リストラされて会社を
追い出されたときに感じる苦しみと、だいたい似たようなものでしょう。)
「神への信仰」が揺らいだときは、「神は論理的に存在しなければならないもの」
であることを繰り返し思いだし、それを自分の頭で何回も再確認します。
(だからまず最初に、理性(頭)によって「神の存在」を納得することが、とても
大切なのです。)
そしてふたたび、「強い意思」を奮い起こして神を信仰します。
このように神への信仰は、いつも神と自分が供にあるように、「強い意思の力」
を絶え間なく持続させて行われるのです。
* * * * *
以上、前回からこれまでお話してきたことを簡潔にまとめると、
まずはじめに、理性(頭)によって、「神の存在」を論理的に納得すること。
そのつぎに、強い意思をもって神を信仰し、感性(心)によって「神の存在」を実感
すること。
そうすれば、「救い」を得ることが出来るのです。
目次にもどる