心の休息と栄養        2005年7月24日 寺岡克哉


 生きることが、辛くて辛くて、どうしようもない人・・・。
 生きることに、疲れ果ててしまった人・・・。
 生きる意欲を、まったく失ってしまった人・・・。
 いつも死ぬことを考え、自殺を望んでいる人・・・。

 そのような人に対して、
 「頑張れ!」
 「とにかく元気を出せ!」
 「どうせ死ぬつもりなら、死ぬ気で生きてみろ!」
などと元気づけるのは、反って逆効果だと一般的に言われています。

 それは、一体なぜでしょう?
 心の健康な人には、それがなかなか理解できないのではないかと思います。それ
でついつい、「生きることに疲れた人」を元気づけてしまうことが、あるのではないで
しょうか。

 それにしても、どうして「元気づけること」がそんなに悪いのでしょう?
 私は、心療医でもカウンセラーでもないので、医学的に確かなことは言えません。
しかしながら、かつて私も「生きることに疲れた経験」があるので、その時のことを
思い出しつつ、私の考えをお話したいと思います。

                 * * * * *

 生きることに疲れ果て、生きる意欲をまったく失ってしまった人・・・。
 そのような人は、心が疲れて「過労死寸前」であり、心が飢えて「餓死寸前」の
状態にあると思うのです。

 たとえば、発展途上国の難民の人々・・・。
 つまり、戦争や災害に巻きこまれて疲れ果て、生活物資や食料が不足し、疲労
凍死や餓死をする寸前の状態にある人々。
 体力も気力も尽きはて、「体を動かすこと」さえ出来ない人々を、頭に思い描いて
みましょう。

 そのような人たちに対して、
 「元気をだして働け!」
 「死ぬ気で働け!」
 「そうすれば、衣服や食料が手に入り、凍死や餓死から救われるだろう!」
と、言ったとしたらどうでしょう?

 難民の人々は、
 「あなたは、私たちのことを全く理解してくれない・・・。」
 「そんなこと出来るわけない・・・。」
と、思うに違いありません。

 凍死や餓死をする寸前の人には、暖房、衣服、食料、そして休息・・・。それらが、
まず第一に必要なものです。
 つまり「体力を回復すること」が、本質的な問題なのです。そうしなければ、動くこと
も、働くことも、何もできないのです。

                  * * * * *

 「心」の場合も、今の話と同じようなところが、あると思うのです。

 いじめ、虐待、恐れ、不安、ストレス、孤独・・・。
 長い間そのような苦しみを受けつづけ、心が疲れ果ててしまうと、何もやる気が
おきなくなります。
 精神力が働かなくなり、何も考えられなくなります。体もだるくて動かなくなります。
ひどい場合は、「呼吸」をするのさえ面倒になってしまいます。
 これは、心が「過労死寸前」の状態であり、心が「餓死寸前」の状態なの
です。

 そのような時は、まず第一に、「心の休息」と「心の栄養」が必要です。つまり、
「心の体力」を回復することが、本質的な問題なのです。

 心の休息とは、「安らぎ」です。
 心の栄養とは、「愛」です。

 生きることに疲れ果て、心が過労死寸前だったり、心が餓死寸前の人には、
まず第一にこれらが必要なのです。

 「元気づけ」が意味を持つようになるのは、その後に「心の体力」が回復してから
です。最初から元気づけたりすれば、相手の心をさらに疲れさせ、消耗させてしま
うのです。

 だから、「元気づけ」は反って逆効果だと、一般的に言われるのでしょう。

                  * * * * *

 しかしながら・・・
 「生きることに疲れた人」の周りには、「安らぎ」を与えてくれる人がなかなか居な
いのが実情でしょう。(だから、生きることに疲れてしまうのです。)
 そしてまた、周りの人間から、ベタベタとした「ありがた迷惑な愛」を押しつけられ
ても、反って疲れが増してしまいます。

 だから、心の休息や心の栄養を「人間」に求めるのは、かなりの幸運に恵まれ
ない限りむずかしいと思います。
 しかも、そのような幸運にもし恵まれたとしても、「その人」がつねに自分の近くに
いてくれるとは限りません。
 また、あまりにも「その人」に頼りきってしまうと、今度は「その人」が疲れ果てて
しまいます。(それは逆に自分が、「生きることに疲れた人」から頼りきられてしまっ
た場合を想像すれば分かるでしょう。)

 このような問題を、すべて解決してくれるのが「神」なのです!
 「大いなる神」に抱かれ、守られているという、根源的な安らぎ。
 宇宙全体を包みこむ、永遠で無限の「神の愛」によって、いつでもどこでも常に
愛されているという、根源的な満足。
 つまり「神」は、いつでもどこでも誰にでも、理想的で最高の「心の休息」と「心の
栄養」を与えてくれるのです。

 そのような「心の休息」と「心の栄養」を、つねに欠かさないこと。
 つまり、つねに神を信じ、つねに神と供にあることは、生きづらい現代社会を
生きぬくための、とても強い力となるでしょう。

 (神から「安らぎ」や「愛」を得る方法。つまり「心の休息」や「心の栄養」を得る
方法については、エッセイ177エッセイ178にまとめてありますので、そちらを
見てください。)



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