児童虐待について 2010年4月25日 寺岡克哉
今年に入ってから、「児童虐待」によって子供が殺される事件が、
ずいぶん報道されています。
たとえば1月には、東京都の江戸川区で、7歳の男児が殺され、
母親と継父が逮捕されました。
また2月には、福岡市の博多区で、3歳の女児が殺され、継父が
逮捕されました。
3月になると、
奈良県の桜井市で、5歳の男児が餓死させられ、父親と母親が
逮捕されました。
兵庫県の三田市で、5歳の女児が殺され、継母が逮捕されました。
大阪府の堺市で、2ヶ月の女児が、つよく揺さぶられて殺され、
母親が逮捕されました。
大阪府の門真市で、2歳の男児が殺され、同居していた19歳の少年
が逮捕されました。
そして4月には、
大阪府の寝屋川市で、1歳の女児がつよく揺さぶられて殺され、
父親と母親が逮捕されました。
大阪府の堺市で、1歳の男児が殺され、母親の内縁の夫が逮捕され
ました。
* * * * *
このように近ごろ、虐待事件の報道がずいぶん多いのは、
マスコミが、特にそのような事件ばかりを、集中して採り上げている
からではありません。
「統計的」に見ても、たしかに最近は、虐待事件が増えています。
たとえば、法務省の発表によると、
全国の法務局が、2009年に扱った人権侵犯事件のうち、
親族による児童への暴行や虐待は、725件で過去最多と
なりました。
また、警察庁の発表によると、
全国の警察が、2009年に摘発した児童虐待事件は335件で、
児童虐待防止法が施行された2000年以降で、最多となって
います。
これは警察が、
虐待の疑われる事例を、以前よりも積極的に捜査することで、
「事件が表面化しやすくなった」という、側面もあるみたいです。
しかしながら、専門家の指摘によると、
核家族化や都市化による「親の孤立」や、「経済的な困窮」など
が背景にあると言うことなので、
やはり最近は、児童虐待が増えているのが事実なのでしょう。
* * * * *
都市化、地域社会の崩壊、核家族化、子育てをする親の孤立、
そして経済的な困窮・・・
児童虐待が起こる原因は、これら様々な要因が、複雑に絡み
合っていると言うのが、真相だと思います。
しかし、そうであっても、
一つだけ、はっきりと断言できる、「根本的な原因」があります。
それは、「人の心の欠落」です!
この、「人の心」というのは、
簡単に言ってしまうと、「人の命や、人格を尊重する心」です。
たとえば、「人の心」のレベルがすごく高くなると、
世界の平和や、人類の幸福を志向したり、
人間以外の、他の生命も尊重するようになるでしょう。
その逆に、「人の心」が欠落すると、これもまた最近の事件で
あったように、
「親から働けと言われて、うっぷんがたまっていた」とか、
「インターネットを解約されて止められた」とか、
そのような、ほとんど理由にならない理由で、簡単に人を殺して
しまいます。
そしてまた、
「子供が言うことを聞かない」とか、「子供が邪魔で、鬱陶(うっとう)
しい」とか、
そんな理由で子供を虐待し、
長期間の暴行を加えて殺したり、浴槽に沈めて溺死させたり、
食事を与えずに餓死させたり、
まさに「拷問による虐殺」と、まったく同じ殺し方をするのも、
「人の心の欠落」以外の、何ものでもありません!
* * * * *
以上のような、「人の心の欠落」という視点は、
現代社会の「闇」や「歪み」の本質を、かなり的確に突いていると、
私には思えるのです。
が、しかしながら、
テレビなどのマスコミや、それに出てくる言論人などが、
このような視点から語っているのを、ほとんど見たことがありません。
それで、
最近の児童虐待のような、悲惨な事件が起こるたびに、
「人の心」という問題についても、みなさんの意識を向けて頂きたい
と思い、
今回、このような文章を書いている次第です。
* * * * *
ところで・・・ 「人の心」についての考察は、
私の体験も踏まえて、エッセイ92に書いておりますが、
私自身、「人の心が欠落した人間」になってしまった可能性も、
「まったくゼロではなかったのではないか?」 という思いが、
どうしても拭いきれません。
少なくても私には、
「自分は絶対に、そんな人間になる訳がない!」 と、
100%の自信をもって断言することが出来ないのです。
現代社会の風潮に、なにも考えずに流されてしまったら・・・
「自分も、”人の心が欠落した人間”になったのではないか?」
という危機感や不安感が、どうしても拭いきれないのです。
また、これもエッセイ92で書きましたが、
「人の心」というのは、先天的に備わっているのではなく、後天的
に獲得するものです。
人間をまったく放って置いて、自然に「人の心」が身に付くはずが
ありません。
「人の心」とは、
適切な環境(家庭環境、教育環境、社会環境など)によって、
「育成されるもの」なのです。
たとえば、
DV(ドメスティック・バイオレンス)や、児童虐待が行われている
ような家庭環境であったり、
情操教育や、最低限のモラル教育が、まったく行われないような
教育環境であったり、
戦争や紛争が起こっていたり、テロや暴動などが頻発するような
社会環境では、
「人の心」というものが、なかなか育成されにくいでしょう。
しかも、この「人の心の育成」には、
10年や20年もの、長い歳月をかける必要があります。
さらに、「心の陶冶(とうや)」という意味でとらえるならば、
「人の心の育成」というのは、生きている限り、一生続けなければ
ならないものでしょう。
しかしながら・・・
現代の日本は、「人の心を育成すること」にたいして、
意識が低すぎるように思えてなりません!
たとえば「学力の育成」に比べれば、「心の育成」に関しては、
親の認識や、社会的な認識が、きわめて低いのではないでしょうか。
そしてそれが、
最近の児童虐待のような、理不尽で悲惨な事件がおこる背景に
なっているのは、
おそらく間違いないでしょう。
このような、
理不尽で悲惨で、しかも残虐な行為を、根本的に減らして行くため
には
近道などは、けっして存在せず、
「人の心の育成」にたいして、社会的に地道に取りくんで行くしか、
ほかに方法は無いでしょう。
* * * * *
最後になりましたが、
児童虐待について、ずっと思っていたことがあります。
それは、
「自分の子供ならば、いくら虐殺しても、なかなか殺人罪に
ならない!」
ということです。
これが、
誘拐してきた、他人の子供だったら、一体どうでしょう?
たとえば、
誘拐した子供を、逃げられないように監禁し、
長期間にわたる暴行を加えて虐殺したり、
浴槽に沈めて溺死させたり、
食事をまったく与えずに、餓死させたりすれば・・・
おそらく「殺人罪」になる可能性が、
自分の子供を虐待して殺した場合よりも、かなり大きいのでは
ないでしょうか。
虐殺される子供の側からしてみれば、
自分の親に殺されても、他人に殺されても、
殺されることには、まったく変わりがないのですが・・・
と言うよりは、むしろ、
子供の苦しみや悲しみは、信頼していた自分の親に殺される方が、
ずっと大きいのではないでしょうか。
そのような意味では、他人の子供を殺すよりも、自分の子供を殺す
方が、
「人間としての罪」は、すごく重いのではないかと思います。
ところで世間には、
「児童虐待の刑罰を重くすれば、かえって陰に隠れて、虐待が発見
されにくくなる」とか、
「刑罰を重くしても、児童虐待は減らない」
「刑を重くすることよりも、児童虐待が起こらないような、社会的な
取り組みの方が重要だ」
などなど、いろいろな意見があるようです。
私も、児童虐待は、「人の心の欠落」というのが本質的な問題で
あり、
「児童虐待の厳罰化」によっては、根本的な解決にならないだろう
と思います。
しかしながら、
まったく同じ「人の命」でありなから、
自分の子供を殺すのと、他人の子供を殺すのとで、
法的な取り扱いに、これだけ大きな差があるというのは、
「何とも言いようのない矛盾」を感じてならないのです。
目次へ トップページへ