生きてる間は関係ない   2007年2月18日 寺岡克哉


 地球温暖化など、オレの生きている間は関係ない!

 だから、温暖化がどんなに酷く(ひどく)なろうと、オレの知ったことでは
ないのだ!


 このような考え方、あるいはこのような感じ方が、温暖化対策にとってすごく大き
な問題ではないかと、私はつねづね感じています。

 じじつ、私の周りにいる人たちを見ても、地球温暖化の危機が迫りつつあること
を知識としては知りながらも、それが人類存亡の危機になるのは、「自分が死んだ
後のことなので、あまり実感が湧かない」という様子がよく伺えます。


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 確かに、人類の存続が危なくなるほど地球温暖化が深刻になるのは、私たちが
死んだ後のことでしょう。

 しかし、そのような考え方や感じ方を何とかしなければ、温暖化対策にとって致命
的ともなりかねません。
 というのは、地球温暖化が本当に深刻になってから(人類の存続が危なくなる
ほど大きな被害が出るようになってから)対策をとったのでは、もはや手遅れだか
らです。

 たぶん、世界中ですごく大きな被害が出るようになると、すぐに効果のでる対策
を、人々は必死になって求め叫ぶのでしょう。が、しかし、そんな特効薬は存在しま
せん。
 一度そうなってしまったら、もはや泣いてもわめいても、もうどうにもならないので
す。それが私には、今から目に映るようです。

 そしてまた、「100年も前から、こうなることは分かっていたのに、なんでそれを
止めようとしなかったのだ!」と未来の人々から、非難と怒りの声をぶつけられる
ことでしょう。
 これも、そのとき私たちはもう生きていないとは言え、やはり今から目に映って
しまいます。


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 「国家100年の計」という言葉がありますが、今まさに「地球100年の計」という
のが、人類の存亡にとってすごく重要な問題になっています。

 しかもそれは、政治を行う者だけでなく、すべての人に求められています。

 というのは、一人ひとりの行動、一人ひとりの価値観、一人ひとりの生き方が、
地球温暖化の「本質的な原因」になっているからです。
 また、現代の世界では「民主主義」が大部分を占めており、有権者ひとり一人の
理解と協力が得られなければ、政府も政治家も動くことが出来ないからです。

 100年後のこと、自分が死んだ後のことまでをも、いま生きている自分のことの
ように、すべての人が実感できるレベルまでに心配すること。それが出来なければ、
地球温暖化の解決は難しいでしょう。

 そしてこれは、人類の種としての限界、人類の認識能力、問題把握能力の限界を
突きつけられていることでもあります。

 この限界を突破できなければ、つまり「自分が死んだ後のことは関係ない!」とい
う考え方や感じ方から脱却できなければ、人類の存続は危ういものになってしまう
でしょう。

 しかし、この限界を突破できれば、人類はさらに生き延びられるし、さらに進歩す
ること(単なる経済発展などではなく、生命としてより善い存在になること)ができる
のです。


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 自分の死後の「未来の生命」を、自分のことのように心配し、大切に思う
こと。


 これは、とても難しいことです。

 一体どのようにしたら、そのような心境になることが出来るのでしょう?

 これはやはり、精神的な飛躍というか、「生命」というものの理解の飛躍(生命
概念の拡張)が、どうしても必要
になって来ます。

 つまり、
 自分の死によって、自分の生命が終わる訳ではないのだ。
 未来の生命は、自分の生命とつながっているのだ。
 未来の生命も、自分の生命の一部をなしているのだ。
 未来の生命は、自分の生命の生まれ変わりなのだ。
 未来の生命も、自分の生命なのだ。
 だから未来の生命の問題は、自分の生命の問題なのだ!

 と、このように、「自分の生命」というものの概念を拡張して行くのです。そうすれ
ば、自分の死後の「未来の生命」のことを、自分のことのように心配し、思いやる
ことが出来るようになるでしょう。


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 この「生命概念の拡張」については、私もすいぶん長いこと考えてきました。

 そしてそれは、以前に書いたエッセイの、所々でお話しています。

 はじめ私は、自分の「生きる意味」を見つけだし、それを実感できるようになる
ために、「生命概念の拡張」の必要性に迫られたのでした。

 しかしいずれ、「地球温暖化」と「人間の心」の問題を考えるときにも、それまで
考えて来たことが、かならず必要になると思っていました。

 それで地球温暖化のエッセイを書き始めても、いささか趣旨の異なるそれまでの
エッセイを、目次から分離せずにおいたのです。


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 今まで書いてきたエッセイの中で、ふつうの人にも比較的納得のしやすいもの
として、
 エッセイ102 輪廻(りんね)について と、
 エッセイ103 前世の業について
を挙げたいと思います。ぜひ一度、ご覧になってみて下さい。

 これら二つのエッセイは、仏教的な考え方(仏教思想)にヒントをえて、しかも
科学的な事実と矛盾しないように、「輪廻(りんね)」とか「前世の業(ぜんせの
ごう)」というものを、現代的に解釈しなおしたものです。
 これならば、宗教的な考え方に馴染めない人や、宗教というものに拒絶反応が
起こる人にも、あるていど納得して頂けるのではないかと思います。

 それらのエッセイで私が言いたかったのは、エッセイ103の最後の方で書きまし
たように、
 「私たちには、未来の生命が幸福になるように努力する動機があり、責任が
ある」
ということです。

 すこし突拍子のない話で、いきなりそれを読んでも、すぐに受け入れるのは難しい
かも知れません。
 しかしそれでも、たとえ多少の時間がかかっても、それを受け入れることの出来る
人は、受け入れて頂けたら嬉しいです。

 一人でも多くの人が、「生命概念の拡張」ができるようにと願ってやみません。



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