ゆっくりと生きる        2007年1月28日 寺岡克哉


 地球温暖化の対策といえば、何かとてつもなく困難なことを、すごい努力を行って、
ずっと続けて行かなければならないような気がします。

 皆さんも、そのような印象をつよく持っているのではないでしょうか?

 しかし私は最近、あんがい楽に行える方法も、あるのではないかと言うことに気が
つきました。

 つまりそれは、血眼(ちまなこ)になり、過労自殺や過労死をするギリギリになるまで
必死になって働くのをやめ、皆ですこし仕事をサボれば良いということです。


                   * * * * *


 もちろん、仕事の量を減らせば、収入もすこし減ってしまうでしょう。そのことは、
やはり覚悟しなければなりません。

 しかしその分、「余計なもの」を買うことを控え、「使い捨て」もしなくなるでしょう。
そして、「要らない贅沢」もしなくなるでしょう。

 たとえば、まだ着ることの出来る衣服なのに、「飽きた!」からと言って、あるいは
「流行遅れになった!」からと言って、その服を着なくなるようなことは、しなくなるで
しょう。

 また「食べ物」などは、季節に合った、その土地のものを食べるようになるでしょう。
 最近は北海道でも、マンゴーや、沖縄のゴーヤ、そして真冬にイチゴを食べること
が普通にできます。これはやはり、すこし異常のように思えます。


                   * * * * *


 レジャーなども、収入が減ることにより、長期間の自動車旅行や、宿泊リゾート、
海外旅行などは減って行くでしょう。

 そして、家でテレビゲームやパソコンをしたり、レンラルビデオやCDなどを見たり、
あるいは音楽を聴いたり、読書をするようになるでしょう。

 または近くの公園などで、ハイキングをしたり、スポーツ、あるいは絵画を写生した
りするようになるでしょう。

 エッセイ235を見てもらえば分かりますが、たとえば休日に、自動車で100キロ
メートル(片道50キロメートル)のドライブを楽しむよりは、テレビゲームやパソコンを
24時間やっていた方が、二酸化炭素の排出はおよそ16分の1で済みます。
 宿泊をしながらの、数100キロから1000キロを超えるような長距離の自動車旅行
なら、なおさらでしょう。

 もちろんレジャーとして、旅行よりもテレビゲームの方が優れていると主張するつも
りはありません。また、自動車の使用を全面禁止にするべきだとも思っていません。
 しかしこれからの時代は、基礎知識として、皆がそのようなことを知っておく必要が
あると思います。

 そのような認識の広がりが、ひいてはハイブリッド車や、電気自動車、燃料電池
自動車、バイオエタノール(サトウキビやトウモロコシから作ったアルコール)、バイオ
ディーゼル(菜種や大豆、ひまわりの種などから取った植物油)などの研究開発や
普及に、拍車をかけることになるでしょう。
 (しかし、バイオエタノールやバイオディーゼルは、農業による「食糧生産」とぶつか
る部分があるので、そこには注意と監視の目を向けなければなりません。)


                    * * * * *


 また、これも勘違いをしている人がけっこう多いのですが、パソコンでインターネット
を楽しむことなどは、過去のレジャースタイルに比べれば、ものすごく省エネになって
います。

 インターネットは、大量の紙を使用せず、印刷もしないので、読書よりもさらに省エネ
になっているでしょう。
 だから、娯楽としてすぐに読み捨てられるような雑誌や、あるいは新聞などは、イン
ターネット化した方がよいと思います。

 また例えば、従来の「手紙」と、「Eメール」を比べてみてください。
 手紙は、海外で樹木を伐採し、それを船で日本に運び、それを原料にして製紙工場
で紙をつくり、その紙を便箋(びんせん)や封筒に加工し、郵便ポストに投函された
手紙は自動車で回収され、貨物列車で各地域の郵便局に運ばれ、さらにそこから
自動車で1軒1軒の家に配られます。

 その二酸化炭素の総量たるや、Eメールとは比べものにならないでしょう。


                   * * * * *


 とにかく最初でお話したように、「すこし仕事をサボって楽をするだけ」で、必然的に
大量生産と大量消費が抑制できるのです。

 ところで、もしも「仕事をサボる」という言葉に抵抗があるのならば、もう少しカッコ
イイ言葉があります。

 それは、
 「スローライフ」とか、
 「ロハス」(Life-styles Of Health And Sustainability 健康で持続可能なライフ
スタイル)
とか言うものです。

 このような言葉が社会に台頭して行くことこそが、大量生産や大量消費の価値観
から脱却しつつある、「芽生え」のように私には感じられます。



              目次にもどる