私の生命の成長 2     2005年5月22日 寺岡克哉


 まず、前回でお話したことを少し確認しますと、以下のようなことでした。

 自分の肉体や自我意識だけが、私の生命なのだ! と考えていると、自分
の死(肉体と自我意識の消滅)によって、「私の生命」も消滅してしまいます。
 そしてそれが、私の「生きる意味」や「生きる目的」をも、根こそぎに奪い去って
しまいます。なぜなら、苦しみに耐えて生きる努力のすべてが、結局「死んで消滅
するため」にしか行われていないからです。

 そこで、私の子孫も、私の生命なのだ! というように、「私の生命」という概念
を拡張することにしました。しかし、そうしてみた所で、私の子孫が永遠に続くという
保障はまったくありません。
 だから、永遠に消滅しない「私の生命」を得るためには、「私の生命」という概念
を、さらに拡張する必要に迫られたのでした。

 今回は、その続きからお話したいと思います。

                * * * * *

 つぎに私は、自分の「思ったこと」や「考えたこと」。
 つまり、私の「心や精神」が、私の生命である! と、考えることにしました。

 たとえば、釈迦やキリストの「心や精神」は、言い伝えや書物となって後世に受け
継がれ、2000年以上にもわたって生き続けています。
 つまり彼らの心や精神が、まるで今でも生きているかのように、現代の私たちに
語りかけてくるのです。
 私には、釈迦やキリストが「すでに死んでしまった人間」だとは、とても思うことが
できません。なぜなら、彼らの「心や精神」が実際に生きて活動し、いまの私に現実
に働きかけているからです。しかもそれは、私の家族や友人などの現実に生きて
いる人間よりも、さらに強く私に働きかけてくるのです。
 私にとって、釈迦やキリストの心や精神、つまり彼らの「生命」は、現実に生きて
いる人間以上に、生きて活動しているのです!

 (ここで言っている「心や精神」とは、自我意識とは違うことに注意してください。
一般に心や精神は、自我意識の中に存在するものですが、自我意識と分離して
存在することもできるのです。だから、釈迦やキリストの心や精神が現代に生き
ていても、それは釈迦やキリストの「自我意識」が生き続けているわけではあり
ません。)

 ところで・・・ 「私の心や精神」も、文章に書き残してみんなに読んでもらえば、
たとえ私が死んでも、私の子孫が残らなくても、「私の生命」は生き続けるわけ
です。
 それは、たいへん魅力的なことです。そのためならば、人生のすべてを賭ける
値打ちが十分にあるでしょう。
 私にとって、「私の心や精神」が永遠に生き続けることは、「私の子孫」が永遠に
残ることよりも魅力的です。なぜなら私には、何十代も先の子孫など、ほとんど
赤の他人と同じようにしか感じられないからです。

 しかし・・・ ちょっと冷静に考えれば、釈迦やキリストならいざ知らず、私ごときの
心や精神が永遠に生きつづける可能性など、やはり、ほとんどゼロに近いでしょ
う。そのような栄光にあずかれる人間は、人類全体でも何百年に一人ぐらいの、
ごくごく少数しかいないのです。

 だから私は、私の心や精神だけが「私の生命」だという考え方に、満足できなくな
りました。それで「私の生命」という概念を、さらに拡張する必要に迫られたのです。

                 * * * * *

 それからしばらく月日がたち、最近になって私は、「大生命の木」という生命の
全体が、「私の生命」なのだと考えるようになりました。
 (ここから先の話は、エッセイ168を読んでいることが前提となっています。申し
訳ありませんが、それをまだ読んでいない方は、先にそちらを見てください。)

 つまり、地球のすべての生命が、私の生命なのです!

 なにも、私の肉体や自我意識や、私の子孫や、私の心や精神だけが、「私の
生命」ではないのです。
 私は今まで、大生命の木の、「私の枝」と「私の枝が伸びた先」だけしか、「私の
生命」だと考えていませんでした。しかしそれは、「私の生命」のごく一部にすぎな
かったのです。
 「私の生命の全体」とは、「大生命の木の全体」です。だから、私とちがう人間の
枝も、さらには人類とちがう生物の枝も、私と同じ「一つの生命」なのです。

 地球のすべての生命・・・ 細菌も、プランクトンも、植物も、動物も。そして全て
の人間と、それらのもつ意識のすべてが、「私の生命」なのです。
 そしてこれは、べつに私だけでなく、他のすべての人間や、他のすべての生物に
ついても言えることです。

 だから例えば、釈迦やキリストの心や精神も、じつは「私の生命」だったのです。
 「大生命の木」という生命観を持つことによって、私はそのことに気がつきまし
た。そしてそれが、「大生命の木」という「生命の全体像」を悟ることによって得ら
れた、「私の生命の成長(拡張)」だったのです。

 私はもう、
 私の肉体が滅んでも・・・
 私の自我意識が消滅しても・・・
 私の子孫が残らなくても・・・
 私の心や精神が、後世の人間に伝わらなくても・・・
「私の生命」は絶対に消滅しません。そんなことでは、「私の生命の本体」に
キズ一本さえも、つけることが出来ないのです。

 私はこのように思うことができて、心にゆとりが出来たというか、人生にゆとりが
出てきました。じつに心の底から、ゆったりと安心することが出来たのです。



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