急性肺炎
2021年4月25日 寺岡克哉
4月15日。
以前から肺ガンを患(わずら)っていた家族の者(私の父)が、
「急性肺炎」により死亡しました。
満86歳でした。
そのため先週は、葬儀などで忙(いそが)しかったこともあり、
エッセイの掲載を、お休みさせて頂きました。
まことに申し訳ありません。
* * * * *
さて、このたびの経緯ですが、
入院する前日(4月13日)の午後に、父が38℃の熱を出したので、
肺ガンの治療で通っている病院に、電話で連絡をしました。
そうすると、
発熱の外来受診は午前で終了しているので、容体が安定している
ようなら、翌日(4月14日)に病院へ来るように言われたのです。
それで4月14日の午前に、父の体温が37.4℃まで熱が下がって
いたので病院へ行きましたが、
一般の患者とは離れたところで待機しつつ、肺のレントゲン写真を
撮影し、血液検査をしました。
それらの検査により、「肺炎」であることが分かり、
新型コロナウイルスのPCR検査も陰性だったので、緊急の入院と
なったのです。
* * * * *
入院時の父の容体(ようだい)は、歩くと息が切れるので、車イスで
移動する状態でしたが、
普通に喋(しゃべ)ることができ、いたって大丈夫な様子でした。
それで私は、入院に必要なものを取ってくるために、いったん家に
帰ったのですが、
私が家に着くと、すぐに主治医の先生から電話が来たのです。
その先生の話によれば、
私が帰った後、父の容体が急に悪化して、命の危険もあるという
ことでした。
それで私は、また急いで病院へ向かったのですが、病院に着くと、
幸いなことに父の容体は峠を超えて安定していました。
主治医の先生の話によれば、看護師さんたちも非常に頑張(がん
ば)ってくれたので、
なんとか容体を安定させることができたそうです。
特別に面会が許されたのですが、
父は個室に移されており、かなり大きな機械(おそらく酸素吸入器)
の管が口につけられ、複数の点滴もされていて、
「この病院で可能な、最大限の治療をしてくれたのだな」と、いうよう
に私は感じました。
父は意識がはっきりしており、「もう、死ぬかと思った!」と、冗談まじ
りの口調(くちょう)で言ったので、
私は、「(癌だけでなく)肺炎だって死ぬんだよ!」と、思わず大きな
声で言い返してしまいました。
このとき私は、「冗談が言えるぐらいなら、もう大丈夫だ!」と思って、
すごく安心していたのですが、
しかしこれが、父との最後の会話に、なってしまったのでした・・・
* * * * *
翌4月15日。
この日、私は病院へ行く予定がなく、
さらに翌日(4月16日)に、父が使う「紙パンツ」を病院に持って行く
予定でした。
それで、この日の夜は、ゆっくりと家で風呂に入っていたのですが、
風呂から上がった瞬間に、とつぜん電話が鳴ったのです。
私は裸のまま、濡れた体で電話に出ると、それは病院からの連絡
であり、
「父の容体が急変して、すでに危ない状態」だと、いうことでした。
私は急いで病院に向かったのですが、すでに父の意識はなく、
オシロスコープに表示されていた、心臓の最後の一鼓動が「ピッ」
と鳴ったのを、聞くことができただけでした。
つぎの瞬間に、父の心臓は完全に停止し、
主治医の先生が、父の腕(うで)の脈拍が止まったのを確認して、
死亡の診断を下しました。
令和3年4月15日午後9時47分のことです。死因は「急性肺炎」
でした・・・
* * * * *
しかし、それにしても父は、
4年以上も肺ガン(ステージ4)と戦って生き抜いてきたのに、けっ
きょく肺ガンが原因で死ぬことはなく、
38℃の熱が出たと思ったら、その後たった2日で、あっけなく肺炎
で死んでしまうなんて・・・・
人生の行方(ゆくえ)というのは、ほんとうに全く解からないものだと、
つくづく心の底から、思い知らされた次第です。
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