愛と慈悲           2004年1月11日 寺岡克哉


 キリスト教の「愛」と、仏教の「慈悲」。
 大ざっぱに言ってしまえば、両方とも同じ「愛の概念」です。
 しかし、一体どちらの概念の方が優れているのでしょうか?
 そのことを私は、ずっと考えてきました。
 しかし、結論は出ません。
 それぞれに良いとことがあり、また弱点もあるように思えます。
 たぶん人類には、「愛」と「慈悲」の両方が必要なのかも知れません。

 今回は、キリスト教的な「愛」と、仏教で言うところの「慈悲」について、今の私が
思っていることや感じていることを、お話したいと思います。

                 * * * * *

 まず、キリスト教的な愛は、自分の死をも恐れないような「強くて激しい愛」
というイメージを私は持っています。
 それはたぶんキリストが、「愛のために十字架につけられて死んだ!」という印象
が強いからだと思います。

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、
わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべき
です。」                           (ヨハネの手紙1 3章16節)

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
                           (ヨハネによる福音書 15章13節)

 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴
い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」
                               (ヨハネの手紙1 4章18節)

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
                            (マタイによる福音書 22章37節)

これら聖書の言葉は、キリスト教的な愛が「強くて激しい愛」であることを示してい
ます。
 力の限りをつくして「神」を愛し、「神の無限の愛」と自分がひとつになること。
 それによって、死をも恐れないような「愛の無限のパワー」を神からもらうこと。
 これが、キリスト教的な愛の力の秘密だと思うのです。キリスト教的な愛は、爆発
的なパワーを発揮する愛なのです。

 「神」を、力のかぎり誠心誠意に愛すると、心が高揚して元気が出てきます。
 生きる力や、生きる勇気が湧いてきます。
 ユウウツになって生きる元気の出ない人や、絶望のどん底にいるような人に対し
て、神は「生きるエネルギー」を与えてくれます。
 これが、キリスト教的な愛の優れているところだと思います。

 しかしキリスト教的な愛には、弱点というか、弊害もあります。
 それは、愛の感情が高まりすぎて暴走すると、理性的な思考や判断ができにくく
なってしまうところです。
 「愛の暴走」については、前回のエッセイ98でお話しましたので、ここではくり返し
ません。しかし、それには注意が必要です。

                 * * * * *

 つぎに、仏教でいう「仏の慈悲」についてお話したいと思います。
 「慈悲」についてはエッセイ71でもお話しましたが、ここでは、それとは少しニュア
ンスの違う「仏の慈悲」について考えてみたいと思います。

 しかしその前に、「仏」の意味をちょっと整理したいと思います。というのは、「仏」に
はいろいろな意味があって、そのままでは混乱してしまうからです。
 「仏」の本来の意味は、「めざめた人」とか「悟った者」という意味の「ブッダ」と発音
する語に、「仏」の字を当てたものです。だからこの場合の「仏」とは、実際に生きて
存在する人間のことです。
 また、死んでしまった人も「仏」と言います。なぜ死んだ人間を「仏」というのか私は
知りませんが、日本では死者のことを「仏」といいます。
 そしてまた、観音菩薩(かんのんぼさつ)や、阿弥陀如来(あみだにょらい)も、「仏」
といいます。この場合の「仏」は、天上にいる「神」とほとんど同じ概念です。

 しかしこれらは、ここでお話しようと思う「仏」とはちょっと違うのです。
 私がお話したい「仏」とは、つぎの座禅和讃(ざぜんわさん)という文章にあるような
ものです。

 衆生(しゅじょう)本来仏なり
 水と氷のごとくにて
 水をはなれて氷なく
 衆生の外(ほか)に仏なし

 座禅和讃でいう「仏」とは衆生。つまり、生きとし生きるものすべてを含めた「地球
の生態系」だと言っています。「仏」には、このような意味もあるのです。
 「仏」をこの意味でとらえれば、仏の慈悲とは、「生命全体の中に満ちあふれて
いる愛」
というイメージが出てきます。
 天から人間を見下ろすような「神の人間に対する愛」ではなく、はるかなる高みを
求めて恋い焦がれるような「人間の神に対する愛」でもない。
 地球の全ての生命が、お互いに手と手を取りあって助け合い、みんなが同じ身の
たけの高さで愛し合うこと。
 あくまでも、「生命どうしの関係」の中に存在する愛。
 「神の愛」は、天のはるか高いところで輝いているような感じがしますが、「仏の慈
悲」は、自分のすぐ目の前にあるような感じがします。
 私は、「仏の慈悲」に対してそのようなイメージを持っているのです。

 一般に「慈悲」は、キリスト教的な強くて激しい愛ではなく、「穏やかで落ちついた
愛」のように思います。
 大海原や大地のように、どっしりと地に足のついた愛のように思います。
 だから「慈悲」は、愛の感情が暴走する恐れがありません。そこが「慈悲」の優れ
ている点です。しかしキリスト教的な愛に比べると、パワフルさに欠けるのが弱点だ
とも言えます。

 生きる元気が出ないときや、絶望のどん底にいるときは、やはり「神の愛」を求め
るのが良いかと思います。それによって、生きる力や、生きる希望や、生きる勇気
が湧いてくるからです。
 反対に、心が高揚しすぎて愛の感情が暴走しそうなときは、「仏の慈悲」を求める
のが良いと思います。そうすると、心が穏やかに落ちつくからです。

 キリスト教と仏教の両方を頼るなんて、無節操な感じがしないでもありません。
 しかし人類には、「神の愛」も「仏の慈悲」も両方必要だと、私はどうしても思ってし
まうのです。



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