努力が報われないとき 2003年12月28日 寺岡克哉
誰でも人生で一度ぐらいは、長年の苦労や努力がまったく認められず、自暴自棄
になりたくなる時があるのではないでしょうか?
例えば、いじめや引きこもりで苦しんでいる人々・・・。
彼らや彼女たちは、孤独の中で苦しみと戦っている努力が、世間の人たちになか
なか分かってもらえないのではないでしょうか?
あるいは、リストラに会ったり、自分の勤める会社が倒産してしまった人々・・・。
とくに、40代や50代のサラリーマンでこのような目に会った人は、たいへん辛い
思いをしているのではないでしょうか?
休日出勤やサービス残業を文句も言わずにやり、20年も30年も努力をしてきた
報いがこれなのです。
しかも、再就職をしたくてもなかなか出来ません。それまでの経験やキャリアが
まったく評価されないどころか、逆に、年齢制限にひっかかってしまうのです。
その上、家族や子供を抱えていればなおさら大変です。このような人たちは本当
に、それまでの苦労が報われていないと思います。
苦労や努力が報われない苦しみや、それを分かってもらえない悲しみは、他にも
たくさんあります。
例えば、
いくら不眠不休で働いても、自分の経営する店や工場が赤字になり、借金ばかり
が増えていく人々・・・。
不治の病で、長年の闘病生活を続ける人々・・・。
国籍や民族、血筋によって差別を受けている人々・・・。
本当に、世の中には理不尽なことが多いと思います。
このような苦しみに比べたら大したことないのですが、私のつたない人生におい
ても、自暴自棄になりたくなったことが何度かあります。
例えばその一つに、私が科学者になる道を断念した時のことがあります。じつは
私は、10年間ほど無給の身分で大学の研究室に所属し、物理学の研究にかじり
ついていたことがあるのです。
そのころは、土日も返上して研究室に通い詰めでした。徹夜になったり、4時間
ぐらいの睡眠しか取れないこともしばしばです。
実験のスケジュールがとても忙しくなると、3日間のあいだに3時間の仮眠しか
取れなかったこともありました。
このように、いくら研究の努力を続けていても、世間一般の人から見れば「金を
稼ぎもせず、自分の好きなことをして遊んでいるだけだろう!」としか思われないの
です。
そして最後は結局、自分ではかなり努力したつもりだったのですが、博士学位を
取得するには至りませんでした。
そのときの経験から、いじめや引きこもりに悩む人たちの「孤独な戦いを続ける
苦しみ」や、40代や50代でリストラされた人たちの「経験やキャリアが評価されな
い苦しみ」が、分かるとまでは言えませんが多少は想像できるのです。
ところで私は、苦労や努力が報われなくて自暴自棄になりそうな時は、
イエス・キリストのことを思うようにしています。
そうすると心が救われて、自暴自棄にならないで済むのです。
私は、キリストほど苦労や努力が(生きている間に)報われなかった人は、いない
のではないかと思います。
キリストは各地を旅しながら、「神と隣人への愛」という、たいへんに素晴らしい
「教え」を説いて回りました。その「教え」の素晴らしさは、その後2千年にもわたって
人類に尊ばれることにより、今では明確に証明されています。
キリストのこの仕事は、人類のもっとも偉大な業績のひとつです。その証拠に、
人類史の全体を記述するのに使う「西暦」は、キリストの生まれた年を基準にして
いるのです。
そしてまたキリストは、目の見えない者や、足が不自由で歩けない者、皮膚病を
患っている者、職業や身分で差別を受けている者、精神や心が病んでいる者たちを
癒して回りました。
このようにキリストは、人々を苦しみから救うために、たいへんな苦労と努力をし
て偉大な仕事をしたのです。
しかしその報いは、磔にされて殺されることでした!
十字架につけられたキリストは、弟子たちには逃げられ、手足を杭で打ち抜かれ
た激痛に耐えていました。そんな苦しみと孤独の中でも、キリストは最後の最後まで、
自分を磔にした人間たちを愛し通したのです。
それを思えば、私の苦労や努力など大したことないように思えて来ます。
磔にされて死ぬまでの「キリストの生きざま」が私の心に迫り、「どんな時でも人を
愛しなさい!」と、力強く語りかけてくるのです。
「キリストの愛」がまぶしいほどに光り輝き、その光が私の全身に降りそそいで来
るのです。
その「愛の光」を浴びると、心の底から元気と勇気が湧いてきます。どんなに苦し
い時でも、他人を恨んだり世の中を憎んではいけないと、思い直すことができるの
です。
確かに、世の中には理不尽なことがたくさんあります。
世の中を憎みたくなる気持ちも、少しは分かる気がします。
「むしゃくしゃするから人でも殺してやろう!」とか、
「もしも爆薬が手に入るのだったら、テロでも起こしてやろう!」と、本気で思って
いる人間が、今の日本に何人いても不思議ではないと思います。
しかしキリストの愛は、そのような「自暴自棄の悪意によって犯罪を犯して
しまうこと」から、私自身を未然に守ってくれるのです。
目次にもどる