永遠の生命について 2003年12月14日 寺岡克哉
釈迦やキリストは、私に「永遠の生命」を与えてくれました。
だから「私の生命」は、私が死んでも永遠に生き続けます。
このようなことを言うと、「こいつは、ついに頭がおかしくなったのか?」と思わ
れてしまいそうです。
しかしこれこそが、人類の知りえた「最高レベルの知」であり、釈迦やキリスト
(特にキリスト)が、私たち人類にいちばん伝えたかったことだと思うのです。
今の私には、「永遠の生命」を頭では理解できる気がします。しかし「心の底か
らの確信」は、正直に言うとまだ持てません。
しかし昔の私と比べれば、年月が経つにつれてだんだんと、「永遠の生命」への
確信が強くなって来たように思います。
だから、これからさらに年月が経てば、「永遠の生命」への確信がますます強く
なって行くように思います。
今の私にうまく説明できる自信はないのですが、私が今まで感じたり理解した
範囲で、「永遠の生命」についてお話してみたいと思います。
* * * * *
世の人々をひろく愛し、苦しみから救おうとした、釈迦やキリスト・・・。
その釈迦やキリストの、「思い」や「意志」・・・。
つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、「永遠の生命」なのだと私は考えて
います。
というのは、釈迦やキリストが死んでから2千年以上経った現代でも、彼らは、
私たちに「愛」を与えてくれるからです。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、現代においても「実感できる」のです。そして
彼らは確かに、「生きる力」や「生命力」を現代に生きるの私たちに与えてくれるの
です。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」に触れると、私たちに「生きる力」や「生命力」が
生じるのは、釈迦やキリストの「生命」を私たちがもらっているからです。
つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストが私たちに与え
てくれる「生命」であり、釈迦やキリストの「生命そのもの」なのです。
このように釈迦やキリストの「生命」は、彼らが死んでもなお、2千年以上に
もわたって生き続けているのです。
だからそれが、死によって滅びることのない「永遠の生命」であるといえる
のです。
ところで、この「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」はまた、「ソフトウエアのようなもの」
であるとも私は考えています。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」というソフトウエアが、「人間の脳」というハードウ
エアにインストールされると、その人間に「愛の感情」や「愛の行動」、あるいは「生
きる力」や「生きる勇気」などと言った「生命力」を生じさせるのです。
一般に「愛」とは、「物質ではないもの」です。愛とは、感情や意志、理性、ある
いは雰囲気(ムード)などといった、精神的な「情報」です。だから「愛」に対しては、
「ソフトウエア」という概念がぴったりなのです。
ところでソフトウエアが同じであれば、ハードウエアが異なっていても、インスト
ールされた「ソフトウエアそのもの」は同じものです。
だから、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」というソフトウエアを自分の脳にインス
トールすれば(自分の心に宿せば)、その慈悲や愛は、釈迦やキリストのそれと同
じものです。
そして今お話したように、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、彼らの生命そのも
のであり、それは死によって滅びることのない「永遠の生命」でした。
つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を自分の心に宿せば、釈迦やキリストと
同じ「永遠の生命」を、自分も手に入れたことになるのです。
あるいは自分の生命が、「釈迦やキリストの永遠の生命と一つになる」と言って
もよいかと思います。
釈迦やキリストの「思い」と、自分の思いを一つにすれば、私のその「思い」は
私が死んでも永遠に消滅しません。
つまり、釈迦やキリストが世の人々を愛したのと同じように、私たちも世の
人々を愛せば、私たちの生命は永遠に生き続けるのです。
このようにして釈迦やキリストは、私たちに「永遠の生命」を与えてくれるのです。
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