新たな真の生命        2003年12月7日 寺岡克哉


 釈迦やキリストは、私に「新しい生命」を与えてくれました。
 それは、人間としての「真の生命」です。


 こんなことを言うと、「何をわけの分からないことを言っているのだ?」と、思われて
しまいそうです。
 しかし上の言葉は、私の今の気持ちを実によく表しているのです。
 今回は、それがうまく説明できるかどうか分かりませんが、私のできる限りお話して
みたいと思います。

 生きとし生きるもの全てを愛した、「釈迦の慈悲」。
 罪人や異邦人、そして敵をも愛した、「キリストの愛」。
 この「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」こそが、人間に与えられる「新しい生命」
であり、人間としての「真の生命」であると、私には思えるのです。


 しかし、なぜ「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、「新しい生命」なのか?
 しかも、なぜそれが「真の生命」なのか?
と、このような疑問を持たれるのではないかと思います。
 しかしこれは、最終的には「実感として確信する」しか、理解する方法がないよ
うに思います。

 「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴び、それを心と体の全体で感じとると、
 「自分に新しい生命が与えられた!」
 「これこそが、本当の生命だ!」
 「人間としての、真の生命なのだ!」
という実感と確信が、確かに心の底から湧きおこるのです。
 ところで、釈迦の慈悲やキリストの愛を「全身に浴びる」という表現をしたのは、
釈迦やキリストが、慈悲や愛のまなざしを「光のシャワー」のように自分にそそいで
くれる感じがするからです。

 この「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、心が喜びに満ちて、「新し
い生命」が吹きこまれたような感じがするのです。自分が、「新しく生まれ変わった」
ような感じがするのです。
 そして、
 「いま、自分は本当に生きている!」
 「いま、自分は本当の生命を持っている!」
という感じが、どうしてもするのです。
 それまでの自分が、まるで機械か人形のごとく「死んでいた」かのように感じてし
まうのです。
 たぶんそれは、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」に触れることで、生き生きとした
「生命力」が自分の中に湧きおこるからだと思います。

 これはやはり、「恋愛」の場合と比べるのが一番わかりやすいと思います。
 熱烈な恋愛をすると、恋人が「自分の生命の源」とか「自分の生命の全て」であ
るように感じてしまいます。
 心が喜びに満ち、恋人から「生きる力」や「生命力」が与えられるように感じるの
です。
 自分の人生がとても充実し、「自分は本当に生きている!」という感じがします。
 それまでの自分が、「本当には生きていなかったのではないか?」と、感じてしま
うほどです。
 自分が新しく生まれ変わり、新しい人生が始まったように感じるのです。
 このような「感じ」がするのは、恋人が「生命」を与えてくれるからです。
 「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、これと同じようなことが起こる
のです。

 それはまた、芸能界やスポーツなどの、あこがれの「スーパースター」に会うこと
にも似ています。
 スーパースターに会うことができて、握手をしたり、話ができたり、サインをもらっ
たりすれば、とても大きな感激と喜びに心が満たされ、生きる希望や生きる勇気
が湧いてきます。
 それは、そのスーパースターが「生命」を与えてくれるからです。
 「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、これと同じようなことが起こる
のです。

 しかしながら、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」に触れることは、恋人やスーパー
スターに会うことよりも、もっともっと素晴らしいのです。
 なぜなら、釈迦の慈悲やキリストの愛は、「生きることの根源的な喜び」を与え
てくれるからです。
 「自分は本当に生きている!」
 「まさしく、これこそが真の生命だ!」
と、心の底からいちばん思えるもの。生きるためにいちばん必要なものを、釈迦や
キリストは与えてくれるからです。

 すこし不謹慎ですが別な言い方をすると、
 釈迦やキリストは、「人類で最高のスーパースター」。
 あるいは女性にとっては、「人類で最高の恋人」と言ってもよいかも知れません。



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