香港はどうなるのか 2
                               2019年12月8日 寺岡克哉


 香港は、中国国内にある一都市なのに、

 なぜ香港の人々は、中国政府と激しく対立しているのでしょう?



 そのことを理解するためには、

 香港はかつて、150年以上にもわたって「イギリスの植民地」で
あった
ことを知る必要があります。



 そして、なぜ、

 香港がイギリスの植民地になってしまったのか、その経緯(いきさつ)
を知るためには、

 「アヘン戦争」のことを知らなければならないのです。



 なので今回は、

 ずいぶん話が遠回りになってしまいますが、「アヘン戦争」について、

 ちょっと復習しておきたいと思います。


              * * * * *


 「アヘン戦争」は1840年~1842年に、イギリスと、当時の中国王朝
であった「清」との間で行われた戦争です。

 また「アヘン」とは、ケシという植物から作られる「麻薬」で、強い習慣性
があり、長期間使っていると心身ともに衰弱して、やがて廃人にいたると
されています。



 さて、

 18世紀(1700年代)になるとイギリスは、ポルトガルやオランダなどを
圧倒して、中国貿易(清との貿易)を独占するようになります。

 当初、イギリスの対清貿易は、イギリスが中国の茶を一方的に輸入し、
その代価を銀で支払うという、完全な片貿易(イギリスの輸入超過)になっ
ていたため、

 毎年毎年、イギリスから中国へ大量の銀が流出していました。

 とくに、1783年にアメリカがイギリスから独立すると、イギリス最大の
植民地であった北米植民地を失うことになり、イギリスは中国への銀の
支払いに、いよいよ苦しむようになったのです。



 このため、18世紀の末になると、

 イギリスは、すでに植民地化していたインドに、アヘンを製造させ、

 イギリスの綿製品をインドに輸出してアヘンを購入し、インド産のアヘン
を中国に輸出して茶の代価にあてるという、

 いわゆる「三角貿易」を開始することによって、事態の打開をはかり
ました。



 そうすると、中国社会において「アヘンを吸飲する」という悪習が広まり、

 清朝政府による「アヘン輸入・吸飲禁止令」にもかかわらず、アヘンの
密輸量は年々増加して行きました。

 そして1830年代になると、ついに中国側がイギリスに対して輸入超過
に陥(おちい)り、アヘンの代価として茶だけでは足りず、中国からイギリス
へ大量の銀が流出するようになったのです。

 さらに1838年~1839年になると、アヘンの密輸量がおよそ2400トン
にも達し、清朝の国家歳入の80%に相当する銀が、アヘンの代価とし
て国外に流出した
といいます。



 このように、中国からイギリスに大量の銀が流出すると、中国国内にお
ける銀の流通量が減少して、「銀貨の高騰」をもたらしました。

 当初は、銀1両(およそ37グラム)が、銅銭で700文~800文であった
のに、

 1830年代の末には、銀1両が、最大で銅銭2000文にも達したのです。



 ところで、当時の中国(清朝)では、税金を「銀」で払うことになっていま
した。

 しかしながら、実際に農民が作物を売って手にすることができたのは
「銅銭」だったので、税金を払うときには、手持ちの銅銭を銀に換算して
払わなければなりません。

 なので、上のような2倍以上にもなる「銀の高騰」は、農民にとって税金
が2倍以上になったのと、まったく等しかったのです。



 つまりイギリスが行った、中国へのアヘンの大量密輸によって、

 中国国内には麻薬中毒者が蔓延(まんえん)し、そして農民たちは
重税に苦しむことになったのです。

 そのため1839年に中国側は、およそ1400トンのアヘンを没収して
焼却し、

 その上でイギリスにたいし、アヘン貿易を停止しないかぎり、一般貿易
をも断絶するという強硬策にふみきったのです。



 しかしイギリス側にとっては、英領インド植民地において、アヘンからの
収益金が歳入のおよそ6分の1も占めており、

 さらにアヘンの製造は、インド農民にたいして、イギリス製綿製品の購買
力を与えていたため、

 アヘンを介した「三角貿易」は、イギリスの世界貿易体制にとって、すで
に「不可欠なもの」となっていました。



 そこでイギリスは、「自由貿易の実現」という大義名分を掲(かか)げて、

 1840年に「アヘン戦争」を起こしたのです。

 この戦争は、近代的な兵器を持っていたイギリス軍が、圧倒的に勝利し、

 1842年に「南京条約」が締結されて、完全な貿易自由化や、賠償金
2100万ドルの支払いなどのほか、香港がイギリスへ割譲(かつじょう)
されたのでした。


              * * * * *


 以上のような経緯によって、香港は、イギリスの植民地となったのです。



 ところで「アヘン戦争」は、

 中国が、公行(こうこう)という制度によって貿易を制限し、自由貿易を
認めなかったことに対して、

 イギリスが、「自由貿易の実現」を大義名分に掲げて戦いを始めたと
いうのが、表向きの理由でした。



 が、しかし、

 「アヘン」という麻薬の密売による、巨大な利益を失うのが嫌(いや)で、

 イギリスが中国に戦争を仕掛けたというのが、どうしても否定しがたい
事実です。



 つまり、当時のイギリスは、

 国家的な規模で麻薬を製造・密売し、それが摘発されたら軍事攻撃を
行うという、

 まるで巨大な「反社会的勢力」のようなことを、していたわけです。



 このような、

 歴史的にも稀(まれ)な「不正義の戦争」によって、香港がイギリスの
植民地にされてしまった・・・ 


 という事実を、これから香港のことを述べていく上で、まず最初に確認
しておかなければならないと思った次第です。



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