川崎市の通り魔事件
2019年6月2日 寺岡克哉
大変な事件が起こりました!
5月28日の午前7時40分ごろ。
川崎市・多摩区の、登戸(のぼりと)新町の公園ちかくの路上で、
黒い服を着た51歳の男が、
私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた児童たちを、
次々と刃物で刺したり、切りつけたりしたのです。
この事件で、
11歳の女子児童と、39歳の男性(別の児童の保護者)の2人
が亡くなり、
その上さらに、17人もの重軽傷者を出しました。
(追記: その後の報道では、重軽傷者が18人となっています。)
一方、
容疑者の51歳の男も、持っていた刃物で自らの首を刺し、
その場で自殺しました。
* * * * *
何とも傷ましい事件です・・・
被害に遭われた方々や、そのご家族の方々は、
私の想像を絶するほどの、たいへんな思いをされていること
と思います。
ほんとうに、
悲惨(ひさん)さと、不条理さと、つよい憤(いきどお)りを、
感じずにはいられない事件です。
* * * * *
ところで、
このたびの事件にたいして、私の思ったことですが・・・
まず、
事件を起こした51歳の男は、実の両親に育てられた訳ではなく、
この容疑者の育った家庭環境には、すこし問題があったようです。
が、しかし、
そんなことで、このような犯罪が正当化されるわけがなく、まったく
同情の余地はありません。
また、
この容疑者の男は、自殺を図って死亡しているので、
「死にたいなら、他人を巻き込まないで、自分一人だけで死ね!」
と言いたくなる人も、少なからずいることでしょう。
が、しかし、
このような人間が、おとなしく自分一人だけで死ぬことなど、
絶対にあり得ないと私は思っています。
なぜなら、
このような事件を起こすこと、つまり、可能なかぎり大規模で
センセーショナルな殺傷事件を起こすことは、
この容疑者にとって、自分の命をかけた、一世一代の大仕事
だったと思うからです。
ものすごく不合理であり、腹立たしいかぎりですが、
おそらく、この容疑者は自殺をすることで、
刑事罰も、社会的な制裁も、損害賠償などの経済的な制裁
からも逃げて、
十分な「満足」を感じながら、死んで行ったのではないかと
思われます。
おそらく、このような人間に対しては、
もし生きて捕まえることが出来たとしても、「死刑」などは、
たいして重い罰にならず、
「社会的な制裁」を受けながら生きつづけ、何億円もの賠償金
を支払うために働きつづける方が、
よほど重い罰になるのだろうと、私は思っています。
* * * * *
ところで、
このような犯罪を抑制するには、一体どのような対策をすれば
よいのでしょう?
たとえば、政府や地方自治体、各地の小中学校などでは、
児童や親御さんに注意を呼びかけたり、
登下校の児童たちを見守る大人の数を増やしたり、パトロール
の警官を増員したり、監視カメラを増設したり、
あやしい不審人物の情報などを、地域社会で共有すること。
等々が、一般的な対策として考えられるかと思います。
これらの対策は、とても重要なので、精力的に取り組んで行かな
ければなりませんが、
それらとは視点を変えた方法として、本サイトで行ってきた考察
などから提案できることも、いくつか述べてみたいと思います。
まず、私が提案したいのは、
「生命の否定を止めさせ、生命を肯定する努力を行なわせる」と、
いうものです。
このような犯罪を起こすのは、「生命の否定」に憑(と)りつかれて
いるからだと、私は考えています。
「生命の否定」の意味や、それから脱却する方法については、
私の拙書でずいぶん詳しく説明しており、
それと同じ内容を、本サイトのエッセイ717~747にアップロード
しています。
興味のある方は、ご覧になって下さい。
また、あるタイプの人間に対しては、
「地獄の存在」を信じさせることで、犯罪の抑制につながるかも
知れません。
つまり、この世で残虐非道な犯罪を行なっても、死ねば、それで
終わりになるのではなく、
地獄に落とされて、何百年も、何千年も、永遠に責め苦が続いて
いく・・・
と、このように信じさせたならば、「自殺して罰から逃げること」が
出来なくなります。
また、別のタイプの人間に対しては、
「転生(生まれ変わり)」を信じさせることで、犯罪の抑制につなが
るかも知れません。
つまり、この世で残虐非道な犯罪を行なえば、死んだ後に、畜生
などに生まれ変わって、苦しめられるというものです。
このように信じさせても、「自殺して罰から逃げること」が出来なく
なります。
おそらく、上のような「地獄」や「転生」などの概念は、
残虐非道な犯罪を、何とかして抑制するための、昔の人々の「知恵」
だったのでしょう。
そして現代であっても、ある一定の割合の人間(もしかしたら、かなり
の割合の人間)に対して、
これら「地獄」や「転生」などの概念が、まだ有効に働くかも知れませ
ん。
なぜなら、
心の底から絶対の自信を持って、「死後の世界や転生など、存在
するはずがない」と言いきれる人の方が、じつは少数派であり、
人前ではなかなか言わないけれど、心の片隅(かたすみ)でひっそり
と、「死後の世界や転生は、もしかしたら存在するかも知れない」
と感じている人の方が、じつは多数派かも知れないからです。
というのは、
私も、この歳になると、家族や親戚などの葬式(そうしき)に出ること
が結構ありますが、
そんなとき周囲の人々に、そのような空気(つまり、死後の世界の
存在を信じているらしい空気)を感じることが、結構あったからです。
* * * * *
しかし、とにかく・・・
このたびの事件は、とてもやるせない事件だと言わざるを得ません。
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