理性と信仰 2003年11月9日 寺岡克哉
「神」というのは、「理性」と「信仰」から成り立っているように思います。
ただしここでは、「理性」や「信仰」のことをあまり難しく考えず、
「理性」とは、「頭」で正しく理解し、良識で判断すること。
「信仰」とは、「心」で実感し、信じきること。
という意味で使うことにします。
つまり「神」には、「頭」で理解する部分と、「心」で実感する部分があるの
です。
(ちなみにこれは、「仏」についても同様に言えます。しかし話が複雑になるの
で、今は「神」に話をしぼりたいと思います。)
ところで・・・ 中世のキリスト教では、理性的な考え方が蔑ろにされ、神に対す
る「信仰」ばかりが強調されて来ました。
その結果、理性の伴わない「盲目的な信仰」がはびこり、「神」は何かうさん臭く
て信用のできないものになってしまいました。それが、現代人を神から遠ざける
原因のように思うのです。
しかし、神の「理性的な部分」をしっかりと捉えなおせば、現代でも「神」は立派
に通用すると思うのです。
神の「理性的な部分」とは、例えば、
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
偽証してはならない。
貪ってはならない。
自分に負い目のある人を赦しなさい。
隣人を愛しなさい。
互いに愛し合いなさい。
と、人間に対して命令している所です。
どうでしょう?
これらの言葉は、たいへんに理性的で、すごくまともだと思いませんか?
そしてまた、いじめ、暴力、幼児虐待、DV、ストーカー、少女売買春、婦女暴行、
通り魔殺人、突然にキレて起こす殺傷事件・・・。
これら現代人の心の闇は、「神を無視し、神の言葉を蔑ろにしているから
だ!」と表現すると、まさにぴったりではないでしょうか?
このように、「神の言葉」は現代でも立派に通用するのです。
しかし理性だけでは、「神の正しさ」を理解できても、「神を感じること」は
できません。
「神の存在」の実感。
神との一体感。
心の底から湧きおこる生命力。
生きる希望や生きる勇気。
生きる力。生命のエネルギー。
これらは、「神への信仰」によって生まれるのです。
ここのところが、単なる思想と、宗教の違いだと思うのです。
以前の私は、「信仰はすべて盲目的で危険である」と思い込んで、信仰心を
自分の心から追い出そうとしていました。
しかし最近は、神を「頭」で理解するだけでは、「生きる力」や「生命のエネル
ギー」が、どうしても湧き起こらないことに気がついたのです。
神の存在を信じ、「神の愛」を心の底から実感すること。
つまり「信仰」がなければ、神は「絵に描いた餅」というか、「死んだもの」に
なってしまうのです。
確かに、「盲目的な信仰」や「間違った信仰」は、たいへんに危険です。宗教のト
ラブルのほとんどは、これが原因といって良いかも知れません。
信仰によって「高揚した精神」は、間違った方向に向くとたいへん危ないのです。
しかしこれは、宗教にかぎらずナショナリズムやイデオロギーも全く同様です。
(暴動や戦争を起こすようなナショナリズムやイデオロギーは、「思想」というより
は、むしろ「盲目的な信仰」や「間違った信仰」に近いと私は思います。)
だからこそ、神には「理性的な部分」が絶対に必要なのです!
神を信仰するときは、「理性に導かれた正しい信仰」でなければならない
のです。
以前の私は、「理性」と「信仰」は、お互いに反発して相容れないものと思ってい
ました。
しかし今は、そうではなく、理性とは「信仰を導くもの」だと考えるようになりま
した。
「理性的な正しい神」であればこそ、心の底から安心して、「神への信仰」を
無限に高めることが出来るのです。
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