生命の肯定と生命の否定
2002年4月21日 寺岡克哉
生命の肯定とは、
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と、心の底から感じることです。
生きる意義や生きる目的を得て、生きがいを感じることです。
生命を輝かせて、いきいきと生きることです。
生命の存在に、喜びと感謝を感じることです。
生命の肯定は、私の人生で最大の目的です。
私は、何としてでも、生命を肯定したいのです。
私が、愛や生命についての考察を行うのは、生命を肯定するためです。
このエッセイ集の最終目的も、生命を肯定することにあります。
私が「生命の肯定」にこだわるのは、「生命の否定」、つまり厭世的な考え方
に浸っていては、百害あって一利なしだということを、心の底から思い知った
からです。
生命の否定とは、例えば、
「生きることに意味なんか無い!」
「生きることは、苦しみ以外の何ものでもない!」
「弱肉強食の生存競争をくり返し、苦しみと闘争にあけくれる生命。こんな
生命など存在しない方がましだ。いっそのこと、みんな殺しあって、生命など
消滅してしまえば良いのだ!」
と、いうような考えに取り憑かれてしまうことです。私は、このような考えに取
り憑かれることを、広く一般に「生命の否定」と呼んでいます。また、
「自分には、生きる価値も、生きる資格もない。」
「自分が生きているのは、只々、他人に迷惑をかけてしまうだけだ。」
「自分は死んだ方が、世間のためなのだ!」
と、いうように、自ら思い込んでしまう「自己否定」の現象も、生命の否定の一種
です。「自己否定」は、生命の否定が、特に自分の生命だけに向けられた状態
なのです。
これら「生命の否定」や「自己否定」に取り憑かれていては、生きることが辛く
なって行き、不幸になるばかりです。最悪の場合は、生命や人間や自分の存
在を激しく憎んで、無差別殺人を起こしたり自殺を招いたりします。
「生命の否定」は、「理性的生命」(エッセイ8参照)に対する、暴行や自傷行
為として作用します。これは「動物的生命」に対する傷害や殺人にさえ匹敵す
る行為だと言えるのです。
実際、受験や仕事に失敗したり、失恋をしたり、リストラやいじめに合って
「生命の否定」に激しく取り憑かれると、自暴自棄になって傷害事件や殺人を
犯したり、自殺をしたりします。
このような理由の犯罪や自殺が起こるのは、仕事の失敗や失恋などが根本
の原因ではありません。「生命の否定に激しく取り憑かれること」が根本の原
因なのです。その証拠に、仕事の失敗や失恋などをしても、生命の否定など
には取り憑かれず、反対にそれをバネにして力強く生きて行く人達もたくさん
いるからです。
このような人達は、生命の否定に取り憑かれることを避けて、「生命を肯定
する術」を身につけている人達なのです。
生命の否定を退けて、生命を肯定するためには、生命の色々な性質、特に
「理性的生命」の性質を分析する必要があります。なぜなら、生命の否定や生
命の肯定は、「理性」の作用によって起こるからです。その証拠に、人間以外
の動物は理性を持たないので、生命の否定など起こりえません。
ところで、まず最初に「動物的生命」が健全でなければ、つまり体が健康でな
ければ、生命を肯定できないのも確かです。しかしながら、不治の病を患って
いたり、五体満足でない体であっても、不屈の精神力を持って、いきいきと生
きている人もたくさんいます。
だから生命の肯定や生命の否定は、「動物的生命」の置かれている状態よ
りは、「理性的生命」の状態によって決まるのです。
つまり、衣食住が満ち足りて、なおかつ体が健康でも、「理性的生命」の状態
が悪ければ、生命の否定は起こってしまうのです。
これは、科学文明がいくら進歩しても、経済がいくら発展しても、医学がいくら
進歩しても、解決のできない全く別の次元の問題であることに、注意をして欲
しいのです。
(将来、心理学や精神医学、大脳生理学などが格段に進歩すれば、理性的生
命に対する問題解決の可能性はあるかも知れないけれど、今の現状ではとても
無理です。せいぜい薬や暗示で感情を一時的にコントロールするだけで、理性
的生命の本質的な問題には、たちうち出来ません。)
しかしながら、生命の肯定に至る方法論は既に明確です。
生命の否定が起こる原因を調べてこれを退け、生命が肯定される条件を探し
出して、それを積極的に採用すれば良いのです。しかし、それは容易なことでは
ありません。
例えば、一つの事例として「性愛」について考えてみても、その行為を行う時の
条件によって、生命の肯定にもなれば、生命の否定にもなります。
例えば、愛し合う夫婦が子供を望んでの性愛であれば、これはまさしく生命肯
定の行為です。しかし、妊娠中絶を行わせるような性愛、母親に子殺しをさせる
ような性愛は、凄まじいほどの、生命の否定を招く原因になってしまいます。
だから「性愛」が良いとか悪いとか言うのではなく、「生命の否定を招くような
性愛」が悪いのです。
このように、「理性的生命」の性質の分析には、物質科学的な分析や、機械論
的な分析は通用しません。全く同じ動作(行為)であっても、生命が肯定されたり、
生命の否定に陥ったりするからです。
そしてまた、大量の物質(生活物資、食料、医薬品、お金など)を投入すれば、
生命の肯定が確実に得られるという保証もないからです。
これは、理性的生命は「物質ではない」ので、物質法則が適用できなくても当然
なのです。(過去に実験物理学の研究をしていた私にとって、生命現象のこのよ
うな所に、生命に対する魅力と、思索のやりがいを感じています。)
以上のように、理性的生命の分析には物質法則が適用できません。しかしなが
ら、「生命の摂理」とか「生命の法則」といえるようなものが存在するのは確かで
す。
大変に困難な作業であるけれども、「理性的生命」の性質や法則を、これから
一つひとつ明らかにして行かなければならないと、私は考えています。
なぜなら、生命を肯定するためにはそれが必要だし、生命の肯定は多くの人が
望むことだと思うし、生命の肯定は私の人生で最大の目的だからです。
目次にもどる