「古い」ということ 2003年10月26日 寺岡克哉
現代社会には、新しいものが良いもの(価値のあるもの)で、少しでも古く
なったものは悪いもの(価値のないもの)と、決めつけてしまうような風潮が
ないでしょうか?
例えば多くの現代人は、つねに最新の話題や流行を必死になって追いかけてい
ます。しかし数ヶ月か、へたをすると数週間で、すぐに興味を失ってしまいます。
そして、家庭、学校、会社、友達どうしなど、さまざまな会話の場においても、
「そんなのはもう古い!」などと言われてしまうと、もう引き下がるしかないような
雰囲気はないでしょうか?
確かに、コンピューターや携帯電話などの電気製品は、「新しいもの」の方が機
能や性能が優れています。
そしてまた、最新の流行やファッションなども、少しでも古くなったらその価値がな
くなることでしょう。
しかしながら、新しいものは全て「良いもの」なのでしょうか?
私は、決してそうは思いません。
例えば、新しく開発された健康食品や新薬などは、かなり後になってその有害性
が発見されることがあります。
薬や食品は、長年にわたる安全性の検証が必要です。だからこの場合は、新し
いものが良いとは決して言えません。長年にわたって広く人々に親しまれてきた
「古いもの」が、安心のできる「良いもの」なのです。
そしてまた、最近は「カバー曲」とか言って、20年ぐらい前に大ヒットした古い歌謡
曲が、若手の歌手によって再び歌われているそうです。
「古い曲」であっても、人々の心に今も残っている良い曲は、現代の若者が聞い
てもやはり良い曲なのだそうです。だから「カバー曲」は、かつて熱中していた今の
中高年層から現代の若者にまで受け入れられ、ヒットする確立が高いそうです。
しかしこれは、別に驚くこともないと思います。というのは、200年ぐらい前に作曲
されたクラシック音楽が、現代でも日常的に耳に入るからです。
古くても良いものは、現代でも通用するのです。逆に、古いのに現代でも通用す
るものが、本当によいものなのだと思います。これは音楽だけに限らず、文学作
品や絵画や彫刻なども同じです。
そしてこれは、釈迦やキリストの説いた思想についても言えることなのです。
釈迦やキリストの思想は、2000年以上も前に説かれたものです。しかし現代に
おいても、多くの人々の生きる支えや、生きる指針となっています。
だから私は、釈迦やキリストの思想が「本当に良いもの」だと信じることが出来る
のです。
ところで、釈迦やキリストの教えをまじめに守るよりも、欲望や快楽にまみれた生
活に魅力を感じるのは、人間ならば当たり前です。
「釈迦やキリストの教えを、まじめに守るなんて馬鹿げている!」
「人間の本質は、欲望と快楽が全てだ!」
「釈迦やキリストの思想は、理想主義の空論にすぎない!」
と、こんなことは昔の時代でも、人間ならば誰でも当然に思うことです。だから釈迦
やキリストの思想に対しては、2000年以上にもわたって、このような攻撃にさらさ
れて来たはずです。
しかしそれでも、釈迦やキリストの教えは現代に生きているのです。ただの古文書
として文献だけが残っているのではなく、人々の心の中の「生きた情報」として、現代
に通用しているのです。だから私は、釈迦やキリストの「教えの正しさ」に確信を持つ
ことが出来るのです。
例えば、ソ連型の共産主義思想などは、一時的には確かに世界中の人々を惹き
つけました。しかし100年を待たずして消え去ったのです。
それに比べたら、釈迦やキリストの思想が2000年以上にもわたって生き続けて
いるのは、とても驚異的なことです。
よく私が、釈迦やキリストの思想を参考にするのもそのためです。釈迦やキリスト
の思想に沿った考察を行えば、少なくとも、あと数百年から千年ぐらいは通用する
考察になるはずだと思うからです。
ところで・・・ 最新の話題や流行ばかりを追いかけていると、自分の人生
で何も残らなくなってしまいます。
つまり、自分の人生において「本当に意味のあるもの」や「本当に価値のあるもの」
が、いつまでたっても蓄えられないのです。
現代社会が、「非常に騒がしいけれど空しい感じ」がするのは、ここら辺りに原因
があるように思います。
数ヶ月か、へたをすれば数週間ですぐに意味がなくなってしまうような、人生の全体
においては全く価値のない情報・・・。
そんな情報ばかりを何十年も追い続ければ、いつまでたっても「人生への理解」や
「人間としての深み」など得られるはずがありません。
最近は、「大人たちが自信を失っている!」などと言われることがあります。
多分これは、自分の人生に対して「確固とした信念」の持てない大人たちが、増え
ていることを言っているのではないかと思います。
これなども、最新の話題や流行、ファッション、あるいは新製品の情報ばかりを長
年にわたって追いかけてしまったこと。
そして、釈迦やキリスト、孔子、老子、荘子などの、「古いけれども、人生への深い
洞察を与える思想」には全く見向きもしなかったことが、その原因の一つではないで
しょうか?
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