生命の真理         2003年10月5日 寺岡克哉


 今の世の中、いったい何が正しくて何が間違いなのでしょうか?
 人間は、何を信じて生きればよいのでしょうか?
 「これを信じて生きれば、絶対に間違いない!」というような、生きるための真理、
つまり「生命の真理」というものが存在するのでしょうか?
 私は、そのような「生命の真理」が存在しないと、どうも安心して生きられないので
す。

 ところで・・・
 「生命の真理なんかいらない!」
 「その時その時の、周りの雰囲気に自分を合わせて生きればそれでいい!」
と、思う人がいるかも知れません。
 しかし多様化した現代社会では、「その時その時の雰囲気」というのが無数に存
在します。だから、それら全てに自分を合わせて生きるのは容易ではありません。
 そしてまた、多種多様な状況、あるいは大量に流されている情報にいつも自分
を合わせていたら、「本当の自分」が分からなくなってしまいます。そして精神が混乱
し、不安や焦燥が増大してしまいます。

 現代の人々は、最新の流行や話題を追いかけるのに必死になる一方で、「本当の
自分」とか「自分の本当の考え」というのを質問されると、とまどってしまう人が多い
のではないでしょうか?
 そして、「自分はこのままで本当にいいのか?」というような、わけの分からない不
安や焦りを、いつも感じてはいないでしょうか?
 そのような時代だからこそ、色々な状況や情報を自分で判断できる基準として、
絶対に信じて間違いのない「生命の真理」が必要なのです。
 「生命の真理」に全てを照らし合わせ、正しいもの、間違ったもの、良いもの、悪い
ものを自分で判断できれば、多種多様な状況や大量の情報の中にあっても、自分
を見失うことはないのです。

 ところで・・・
 「世の中は、物と金がすべてだ!」
 「物と金さえ信じて生きれば、絶対に間違いはないのだ!」
 「物と金こそ、世の中を判断する基準だ!」
と、思う人も多いかも知れません。
 というのは、今までの日本人の多くが科学技術と経済の発展、つまり「物と金」を
信仰して
生きてきたからです。
 そして、「人の心」や「人間性」などといったものよりも、「物と金」を最優先にしてき
ました。つまり、「人間」よりも「物と金」を大切にしたのです。
 その結果、「無機的な人間」、「機械的な人間」、「不人情な人間」、「無慈悲な人
間」、「非人間的な人間」というのが、増えてきたのではないでしょうか?
 そして、
 生きる実感が持てない人々。
 古いものを捨てるように、簡単に人を切り捨てるような人間。
 まるで物を壊すかのように、簡単に人を殺してしまうような人間。
というのが、増えているのではないでしょうか?
 だから私は、「物と金」が「生命の真理」だとはとても思えないのです。

 私は今まで、自分が本当に信じることのできる「生命の真理」を求めて、「愛」、
「理性」、「神」などの考察を行ってきました。
 しかしその結果、愛や理性、そして神といえども、「間違ったもの」があることが
分かったのです。
 例えば、
 エゴイズムや自信過剰、ナルシシズムなどの「自己愛」
 不倫、離婚、家庭崩壊、妊娠中絶、自殺、心中、殺傷事件などを起こすような、
「恋愛や性愛」。
 紛争や戦争を引き起こすような、「国家や民族への愛」。
 犯罪やテロなどを綿密に計画し、的確に実行するような「理性」。
 テロや戦争を助長したり、科学的な事実を否定したり、思想弾圧や魔女狩りを行
うような「神」。
 これらは全て悪いものであり、間違ったものです。

 このように、愛や理性、そして神といえども、「絶対に正しい!」とは言えない
のです。
 ここに至り、私は「生命の真理」を探すのを、あきらめかけてしまいました。
 しかしその時、私が行った考察を全て吟味しなおしても、一つだけ信じて良い
ものを見つけたのです!
 それは結局、「生命の肯定」でした。


 例えば、
 健康と生活を維持するのに必要な「物と金」。
 自分の心と体を適切に自己管理し、正しく健全に生きるための「自己愛」。
 新しい家庭を築き、人類を未来につなげるための「恋愛や性愛」。
 国民の生活と安全を守るための「国家への愛」。
 貧困や病気を根絶したり、平和を実現したり、地球環境を守るための「理性」。
 人類に生きる希望と勇気を与える「神」。
 これら「生命を肯定するもの」は、全て良いものであり正しいものです。

 つまり、物や金が、愛が、理性が、そして神が、良いとか悪いとか、正しいとか間
違っているとかではないのです。
 生命を肯定するための、物や金、愛、理性、神が、良くて正しいものなのです。
 そして生命を否定してしまうような、物や金、愛、理性、神が、悪くて間違ったもの
なのです。
 政治、経済、科学、思想、宗教・・・。およそ人類の行う全ての活動が、生命を肯定
するのか、あるいは生命を否定してしまうのかによって、良くて正しいものなのか、
悪くて間違ったものなのかが決まるのです。

 ゆえに「生命の肯定」を、生命の真理と考えて良いと私は思うのです。



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