「高揚した愛」と「落ち着いた愛」  
                                   2003年9月28日 寺岡克哉


 「愛」には、無限の高みに登りつめていくような「高揚した愛」と、どっしりと
地に足のついたような「落ち着いた愛」があるように思います。

 「高揚した愛」とは、エッセイ62でお話した「最高の愛の感覚」や、エッセイ79で
お話した「根源的な絶対無」です。
 これは、高いレベルの一点に「ギューッ」と精神が集中した状態で、「性的な愛」を
極限まで高めたようなものです。
 とはいっても、官能的な肉体の反応(男性で言えばペニスの勃起)がもはや存在
しないので、単なる肉体の性欲をはるかに超越した精神状態です。
 しかしながら「高揚した愛」は、異性の体を「ギューッ」と抱きしめて「身も心も完全
に一つになってしまいたい!」というような気持ちを、限りなく高めて行った延長上に
ある愛なのです。
 私はこの愛に対して、はるかな高みで輝いている一点の光に、限りなく登りつめて
行くようなイメージを持っています。
 「高揚した愛」は、無限の高みや無限の理想を求める愛なのです。
 「絶対の真理」や「完全な美」を追求したい! という、人類に共通した動機の根
源も、この「高揚した愛」のように思います。

 一方、これとは全く違った「愛の感覚」もあります。
 どっしりと地に足のついたような、「落ち着いた愛」です。
 「落ち着いた愛」は、異性を「ギューッ」と抱きしめたくなるような愛ではなく、生まれ
たばかりの赤ちゃんを、そっと優しく抱きかかえるような愛。安らかに眠っている子
供をそっと優しく見守るような愛です。
 はるかな高みを登りつめるのではなく、同じ身の丈の高さで、しかしながらとてつも
なく大きな愛。
 大海原や大地のように大きな愛。そして大きな岩や、山のように、どっしりとした
不動の愛です。
 世界の全てを抱きかかえ、下からガッチリと支えている愛。宇宙の全てを根底から
支える愛です。
 「落ち着いた愛」は、「無限の高さ」ではなく「無限の大きさ」を持つ愛なのです。

 ところで、「高揚した愛」と「落ち着いた愛」のどちらが優れているのかは、今の私
にはまだちょっと分かりません。
 それぞれに優れた所があり、また欠点もあるように思えるのです。たぶん、どちら
か一方というのではなく、人間には「高揚した愛」と「落ち着いた愛」の両方が必要な
のかも知れません。

 「落ち着いた愛」は、愛の感情(精神的な高まり)としては、そんなに強いものではあ
りません。穏やかでゆったりとした愛です。「高揚した愛」に比べると、「愛のパワー」
や「生命力」にはどうしても欠けます。
 だから「自己否定」から脱却するためには、「落ち着いた愛」よりも「高揚した愛」の
方が優れていると思っていました。
 だから私は今まで、愛の感情を高める努力をずっと行って来ました。それはそれで
正しいのだと思っています。
 しかし最近は、「高揚した愛」の欠点が以前よりもよく実感できるようになったと同時
に、「落ち着いた愛」の良さも実感できるようになって来たのです。
 (今まで頭では、「落ち着いた愛」の良いところも分かっていました。しかし最近は、
それが実感で理解できるようになって来たのです。)

 「落ち着いた愛」は、どっしりと地に足のついたような愛です。完全に心が安定して
います。だから理性がよく働き、論理的な思考や判断力が鈍ることがありません。
 また「落ち着いた愛」は、極度の精神的な高ぶりがないので、エネルギーを消耗
することがありません。だから永遠に愛し続けることができます。
 つまり「落ち着いた愛」は、理性的な愛であり、永遠の愛なのです。

 一方「高揚した愛」は、精神が極度に高ぶった状態なので、地に足のついたような
安定感がありません。
 ところで「高揚した愛」も、高いレベルの一点に精神が集中し、心が安定していま
す。つまり「ギューッ」と精神が集中して何も考えられなくなり、思考が静止するので
す。
 しかし時間がたつと、エネルギーを消耗して安定状態から落ちてしまいます。そこ
が今ひとつ不安定なのです。「高揚した愛」は、足が浮いている状態での安定なの
です。

 また、「高揚した愛」は精神が極度に高ぶるので、理性がよく働きません。つまり
論理的な思考や理性的な判断ができにくくなるのです。
 だから、高ぶった「愛のパワー」や「生命力」が暴走する恐れがあります。そしてそ
れが、犯罪やテロや戦争などに発展する可能性も皆無ではありません。
 また、「高揚した愛」は精神的なエネルギーを非常に消耗するので、永遠に愛し続
けることが出来ません。

 このように、「高揚した愛」にも欠点があるのです。
 しかしながら、人間には「高揚した愛」がないと寂しいのです。やはり「落ち着いた
愛」だけでは、「愛のパワー」や「生命力」に欠けると思うのです。
 しかし「高揚した愛」だけでも、それが暴走する恐れがあります。それを理性的に
くいとめることが、「落ち着いた愛」の役目なのだと思います。
 やはり人間には、「高揚した愛」と「落ち着いた愛」の両方が必要なのだと
私は思います。



 (ちなみに私は、「高揚した愛」はキリスト教における「人間の神に対する愛」。「落
ち着いた愛」は、大生命の大愛、仏教における慈悲、キリスト教における「神の愛」
などを想定しています。)



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