身近になった太平洋戦争
                              2018年3月25日 寺岡克哉


 先日、

 北海道の保健福祉部から、「特別弔慰(ちょうい)金の請求について
のご案内」

 という文書が送られてきました。それを見てみると、

 「国では、先の大戦で公務等のため国に殉(じゅん)じたもとの軍人、
軍属及び準軍属の方(戦没者等)に対する弔意の意を表するため、
戦没者等のご遺族の方に特別弔慰金を支給しています」

 と、書いてありました。



 どうやら私の父が、このだび支給の対象者になったようです・・・ 


             * * * * *


 ところで、私の父の兄(つまり私の叔父)は、戦死したのですが、

 弔慰金申請の受け付け先になっている、区役所で説明を聞いて
みると、

 確かに「叔父が戦死した」ということを、証明しなければならず、

 そのためには、叔父の戦死が記述されている「戸籍」が、必要との
ことでした。



 それで戸籍を取ったのですが、その戸籍には、ものすごく読みにくい
崩し字で、以下のように書いてありました。

 「昭和拾九年四月弐拾五日午後九時参拾五分印度国アッサム州
マニプール県クンピー東北側基地ニ於テ戦死」


 これを、読みやすいように書き直すと

 「昭和19年4月25日午後9時35分 インド国アッサム州マニプー
ル県クンピー東北側基地に於(お)いて戦死」

 と、なります。



 まず私は、この戸籍の記述を見たとき、

 日本軍がインドにまで侵攻していたとは知らなかったので、ちょっと
不思議な感じがしました。


 それで世界地図を見たのですが、

 インドのマニプール県というのは、おそらく現在のマニプル州で、その
州都は「インパール」です。


 これにより、

 私の叔父が「インパール作戦」で戦死したことを、確認することができ
ました。



 戸籍の記述を見て、つぎに私が疑問に感じたのは、

 私の叔父が、午後9時35分という夜中に、「基地」において戦死して
いることです。

 もしかしたら日本軍の基地が、「夜襲」にでも遭遇(そうぐう)したのかも
知れないと思いました。


 これについては、私の父が子供のころに聞いた話によると、

 怪我をして動けなくなり、手当てを受けたのですが、その甲斐なく死亡
したみたいです。



 私は思うのですが、

 「インパール作戦」というのは、日本軍の補給路が断たれて多くの
餓死者を出した、ものすごく悲惨な戦いでした。

 なので当然ながら、医薬品なども極度に不足していたはずで、

 おそらく私の叔父は、満足な治療を受けることが、出来なかったの
ではないかと推測されます。


             * * * * *


 ちなみに、

 太平洋戦争が終結してから、73年もの年月が経とうとしています。



 私は、このたびの弔慰金の請求に関して、戸籍を取り寄せるなどの
協力をしたのですが、

 「太平洋戦争」という73年も前の出来事が、いま現在の私に、戸籍
を取り寄せるという「具体的な行動」を起こさせたのです。



 そのことに、すごく不思議な因縁を感じるとともに、

 日本の戦後処理は、確かに、いま現在においても続いており、

 やはり戦争を行うというのは、とてもとても大変なことなのだと、

 あらためて認識した次第です。



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