愛と生命と究極の幸福 2003年8月31日 寺岡克哉
生きることは素晴らしい!
この世に生まれてきて良かった!
この地球に、人類と生命が存在することは素晴らしい!
と、人間が心の底から本当に感じる時。しかも究極的にそう感じる時とは、一体ど
のような時でしょうか?
それは、「神の無限の愛」に触れてそれを実感し、「神の無限の愛」と「自分」
が完全に一つとなり、そのことによって「限りない幸福」を感じる時です。
これは、エッセイ62でお話した「最高の愛の感覚」や、エッセイ79でお話した「根
源的な絶対無」を感じている状態です。
つまり、非常に高い「精神レベル」の一点に、「ギューッ」という感じの非常に強い
「精神集中」が起こり、全身が暖かな「愛の光と波動」に包まれる感じがする状態で
す。(これらの詳しい状態については、エッセイ62と79を参照して下さい。)
この幸福感に比べれば、例えば異性を求めることや、金や権力を求めること、ある
いは学問や芸術によって真理や美を求めることでさえも、それらは結局、「神を求め
ること」の代用品にしかすぎないように感じてしまいます。
実際、私のつたない人生においても、恋愛をしたり、大学に合格したり、山に登って
大自然を体感したり、遭難間際まで追いつめられた雪山登山から無事に生還できた
り、初めて外国に出かけたり、物理学の研究成果を国際学会で発表したり、研究論
文が学術雑誌に掲載されたり、本を出版したり・・・。そのようなときに、大きな幸福を
感じることは出来ました。
しかし「神の無限の愛」を実感し、自分がそれと一体になることの幸福感は、それら
とはレベルが違うのです。
言葉は変ですが、「脳みそが裏返る」というか、脳の構造が変わってしまったのでは
ないかと思えるほどの幸福感なのです。
それは今まで私が経験した中で、最大で最高の「究極の幸福」であることは間違い
ありません。
「神の無限の愛」と一体になって「究極の幸福」を実感するとき、「生きていて良かっ
た!」と本当に心の底から思えるようになります。
生きる意欲や、生きる勇気や、生きる元気がどんどん湧き起こってきます。
心と体に「生命のエネルギー」がジンジンと満ちて、生き生きとしてきます。
このように、「神」とは愛の根源でありますが、生きる力の根源、つまり「生命
力の根源」でもあるのです。
神とは「愛と生命」の根源、あるいは、愛と生命の「根源的な本体そのもの」
と言っても良いかと思います。
ところで・・・現代社会には、生きることの恐れや不安を煽り立て、あるいは怒りや
憎悪をかき立てられて、この世を「生き苦しくしているもの」がたくさんあります。
例えば・・・いじめ、ひきこもり、不登校、リストカットなどの自傷行為、無慈悲なリス
トラ、過労死、過労自殺、DV、家庭内暴力、幼児虐待、不倫、家庭崩壊、少女売
買春、性犯罪、妊娠中絶、少年犯罪、突然にキレて起こす殺傷事件、暴力、殺人、
テロ、戦争・・・。
これら現代社会を蝕む「心の闇」は、人間の生命と人格に対する思いやりの喪失
(愛の喪失)と、生きる意欲や生命力の喪失(生命の喪失)が全ての原因です。
現代人の心の闇は、ひとえに「愛と生命」の喪失、つまり「神の喪失」にその
根本原因が集約されるのです。
(ただし、くれぐれもお断りしますが、この場合の「神」とは金儲けやテロや戦争の
道具にされるような「間違った神」のことでは決してありません。「愛と生命」の根源、
あるいは「愛と生命」の本体としての神です。)
物質文明社会における「神の喪失」については、哲学者、心理学者、精神医学者、
社会学者、教育者、そして現代社会に生きる多くの人々が、薄々は気がついてい
るのだと思います。
しかし今の日本の社会では、「神の存在」を広く公言することには、大変な勇気が
必要です。少なくとも私は、そのような世間の圧力を非常に強く肌で感じます。
しかし世の中には、生きて行くために「神」が必要な人たちが必ずいます。
神が存在しなければ、生きて行けない人たちが必ずいます。
神を最後の心の支え、最後の「生きる拠り所」にしている人たちがいます。
しかも世界的に見れば、そのような人たちはたくさんいるのです。
そして、もしも生きている間に「神の無限の愛」に触れてそれを実感すること
が出来たならば、自殺をしなくて済んだ人たちも、たくさんいたと思います。
その人たちから強引に「神」を取り上げようとするのは、生きる力の根源、
生命力の根源を剥奪する行為です。それは、いじめで自殺に追いやるのに
も匹敵する行為だと私は思います。
(しかし、金をむしり取るだけのインチキな宗教に洗脳されている人を、そこから
救い出すべきなのは当然です。そのようなインチキな宗教こそが、人々を正しい神
から遠ざけ、「神の喪失」を助長しているのです。しかしそれは、今の日本人の多く
が宗教の正しい知識を持たないために、カモにされていることにも原因があるので
す。)
そしてまた、「神の無限の愛と一体になること」は、人間が「究極の幸福」を得るこ
とができる唯一の方法でもあります。
恋人がいなくても、家族がなくても、金や名誉や権力がなくても、学歴や専門知識
がなくても、長いこと病気を患っていたり、目や耳や体が不自由であっても、人間は
「究極の幸福」を得ることが出来るのです。
そしてさらには、今まさに大変な苦痛の中で死んで行こうとする時でさえも、「究極
の幸福」を得ることは原理的に可能なのだと思います。それは、十字架につけられ
た時のキリストによって示されました。
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するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にい
る」と言われた。
(ルカによる福音書 23章43節)
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これは、キリストがまさに十字架につけられている時に、一緒に十字架につけら
れた犯罪人に向かって言った言葉なのです。
「神の無限の愛と一体になること」による「究極の幸福」は、いつでもどこで
も誰にでも、さらには、どのような状況にある時でも得ることが出来るのです!
「神による救い」とは、このようなことを言うのかも知れません。
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