愛の根源 2003年8月24日 寺岡克哉
なぜ、「愛」というものが存在するのでしょうか?
どうして「愛の感情」が起こるのでしょうか?
「愛」は、どこからやって来るのでしょうか?
人間には、「憎しみ」という感情も確かに存在します。しかしそれにしてもなぜ人間
は、「憎しみ」を不快に感じて悪いものと判断し、「愛」を好ましく感じて良いものと判
断するのでしょうか?
このことを突き詰めて考えると、その究極的な結論は、「神が人間をそのように
作ったからだ!」としか答えようがないのです。
言葉を換えていえば、ビッグバンによって始まる宇宙の進化と、地球に最初の生
命が誕生して始まる生命の進化、さらには人類が誕生して始まる人類の歴史を経
て、現在の人間がそのように作られたということです。
ところで、地球に人類が誕生し、しかも今のような存在になることが、ビッグバンの
当初から決定されていたかどうかは知りません。
無限に存在する過去において、あるいは無限に存在する時空間において起こった
であろう、何千回何万回というビッグバン。(それを科学的に証明することは出来ま
せんが、否定することも出来ません。)その中でたまたま偶然に、「この宇宙」にだけ
生命や人類が誕生したのかも知れません。
しかしながら、私たちがいる「この宇宙」においては、ビッグバンの当初から現在
の我々まで、原因と結果の因果関係が続いていることは否定できません。
人間が今のような存在になったのは、つまり人間に愛が存在するのは、
神が人間をそのように作ったからなのです。
しかしながら、
「愛」は、どのようにして生じるのでしょうか?
「愛」は、どこからやって来るのでしょうか?
次に、そのことについてお話したいと思います。
まず最初に、愛の感情が起こったり愛を感じたりする、ごく普通の場合を考えてみ
ます。そうすると、愛する異性、愛する子供や家族、愛する友人、愛する動物などを
見たり接したりしたときに、愛が生じるのが分かります。つまり普通の場合は、「具体
的に存在するもの」に対して愛が生じるのです。
しかし「神の存在」を認めるようになると、神のことを考えたり、神の存在を実感し
たり、神に祈りを捧げることによって愛が生じるようになります。
つまり「具体的に存在しないもの」に対してまでも、愛の感情が起こったり愛を感
じたりするようになるのです。
そして、
神は「愛の根源」であること。
人間に愛を生じさせるものが「神」であること。
が、実感として理解できるようになるのです。
事実人間は、具体的な対象がその場に存在しなくても愛が生じます。
それはやはり、「恋愛」の場合と比較をすれば、多くの人にも納得してもらえるので
はないでしょうか。
「恋愛」も恋心がつのると、愛する人のことを考えただけで幸せな気分になり、その
場に相手がいなくても愛の感情が起こるようになります。
相手のことを考えただけで愛しい気持ちになり、その人の優しさや雰囲気(ムード)
を感じることが出来ます。そして、その人が今ここにいて、自分に愛を向けているよ
うに感じるのです。
また、大変に深く愛し合った相手と、不幸にして死に別れてしまった場合も同様で
す。確かに死に別れてしばらくの間は、大変な悲しみと喪失感に打ちひしがれてしま
います。しかし、何十年もの長い年月が経つうちに良い思い出だけが残り、その人
を思い出すたびに愛の感情が起こり、「愛の思い出」に包まれると思うのです。
そしてさらには、釈迦やキリストのように、実際には見たことも一緒に暮らしたこと
もない人。そのような人であっても、その生き様や言動を思い起こすたびに、愛の感
情が湧き起こって来るのです。そして釈迦やキリストの大いなる愛に、自分が包み
込まれているような感じがするのです。
このように人間は、その場に存在しない人や、さらにはこの世に存在しない人に
対しても、愛の感情が起こったり、その人の愛を感じたりすることが出来るのです。
しかしながら、「恋の相手」は実在する人間であり、「死んでしまった人」は過去に
実在した人間です。そこには、「具体的に存在するもの」に対する具体的なイメージ
があります。
ところが「神」の場合は、「具体的なもの」というのが存在せず、具体的なイメージ
もありません。しかしながら人間は、そのようなものに対しても、愛の感情が起こっ
たり愛を感じたりすることが出来るのです。
実際に私の場合も、神についての具体的なイメージや、人格的なイメージは持っ
ていません。
私が持っている神のイメージは、「宇宙全体を無限の愛で包み込んでいるもの」と
か、「暖かくてやわらかな、愛の光と波動」というような抽象的なイメージです。
あるいは、私の感じる神とは「根源的な絶対無」とも言えるようなものです。これ
は、エッセイ62でお話した「最高の愛の感覚」と同じものです。(詳しくは、もう一度
エッセイ62を見て頂けると助かります。)
「根源的な絶対無」は、頭の中にこれといったイメージさえもなく、ただ「ギューッ」
とした精神の集中があるのみです。
これは、性的快楽が最高に高まった瞬間と少し似ています。性的快楽が最高に
高まる瞬間にも、「ギューッ」とした体の緊張と精神の集中があるからです。
しかし「根源的な絶対無」は、性的快楽に比べて「精神のレベル」が非常に高く、
また「精神の集中」も高いのです。
つまり「根源的な絶対無」は、性的快楽よりも幸福感と満足感が大きいの
です!
性的快楽は「肉体的なもの」(肉体の感覚や運動を伴うもの)なので、意識がどう
しても肉体の方に向かってしまいます。だから意識を精神だけに集中させることが
出来ません。また性的快楽は、すぐにエネルギーを肉体的に放出してしまいます。
だからどうしても性的快楽の場合は、「精神のレベル」と「精神の集中」をそんなに
高めることが出来ないのです。
しかし、根源的な絶対無は「純粋に精神的なもの」なので、意識とエネルギーの
全てを「精神のレベル」と「精神の集中」を高めること、つまり幸福感と満足感の増
大に向けることが出来るのです。
また、性的快楽が最高に高まるのは、男性の場合は射精時のほんの一瞬です。
しかし「根源的な絶対無」を感じている時間は、私の場合では15分から30分ぐ
らいあります。その間に、精神のレベルと精神の集中をさらに高めていくことが出
来るのです。
(ところで「根源的な絶対無」には、性的快楽のように肉体的なエネルギーの放出
がありません。しかし極度の精神集中には、やはりかなりのエネルギーを消費しま
す。だからその状態を無限に長く続けることは出来ないのです。)
宇宙全体を包み込んでいる無限の愛。
暖かな愛の光と波動。
根源的な絶対無(最高の愛の感覚)。
これらを実感するとき、心の奥底から無意識的に理由もなく、愛の感情がとめど
なく湧き起こって来るのです。そして、「神の無限の愛」に全身が包まれているよう
な感じがするのです。
このような体験を通して、「神が愛の根源であること」が実感として理解できるよ
うになるのです。
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