「時間」というものの力
                               2017年4月9日 寺岡克哉


 私は最近、

 エッセイ783 「時間」という圧倒的な強制力

 エッセイ784 変な風邪に罹りました

 エッセイ786 母の1周忌 

 という、3本のエッセイを書きました。



 ところで、これら3本のエッセイを書いているうちに私は、「時間」
というものの力。

 つまり、

 時間というものの作用、働き、効果、効能などと言ったものに
ついて、

 今までに感じたことが無かった、「新たな認識」を実感したので
した。


 ちょっと今回は、そのことについて書いてみたいと思います。


            * * * * *


 まず、

 エッセイ783の、”「時間」という圧倒的な強制力” で書きました
ように、

 末期のガンを患(わずら)っていた、母の世話をしていたときです。



 このとき私は、

 どんなに、どんなに努力をしても、母の体重が減少していき、

 「時間」でも止めない限り、体重の減少を止めることが、絶対に不可
能な状況だったことから、

 まるで、爆走する超大型のダンプカーのように、ものすごく巨大な力
で突き進んでいて、絶対に止めることが不可能・・・ 



 そのような、

 時間というものの、「とてつもなく大きな強制力」を認識させられ、

 それを実感したのでした。


             * * * * *


 つぎに、

 エッセイ784の、 ”変な風邪に罹りました” で書きましたように、

 病気に罹(かか)ったときです。



 そのときの症状は、38.0℃~38.5℃ぐらいの熱が出て、

 手足を中心に発疹(はっしん)ができ、口の中には口内炎が
できました。

 そして、頭痛や腰痛、筋肉痛、ものすごい「ダルさ」などがあり、

 とくに「頭痛」が、けっこう酷(ひど)くて、考え事が出来ないほど
でした。



 病院のお医者さんによると、この病気はウイルス性のもので、

 特効薬はなく、「自然に治るまで待つしかない」ということでした。



 もちろん、対症療法として、解熱と鎮痛の効果がある薬を処方
されたのですが、

 しかし薬が切れると、はげしい頭痛が襲ってきました。



 このとき私は、ただひたすら、病気が早く治ることを願って、

 「はやく時間が経たないかなあ」と、そればかり思っていました。

 つまり「時間による治癒力(ちゆりょく)」に、ひたすら、すがって
いたわけです。



 そして病気が治ったとき、

 「時間による治癒力」というものの偉大さを、

 私は改めて認識させられ、それを実感したのでした。


           * * * * *


 そして、つぎに、

 エッセイ786で書いた、 ”母の1周忌” を迎えたときです。



 そこで書きましたように、母が亡くなってから1年が経過した
現在において、

 母の居ない生活が、ごく自然に感じるようになった自分に、
気がついてしまいました。



 この「自然な感覚」ですが、

 ほんとうに、ごくごく自然に感じてしまい、あまりにも自然に
感じるものだから、

 ここまで自然に感じて良いものかと、自分を疑ってしまいたく
なります。



 悲しさや、寂(さみ)しさなども、あまり感じることはなく、

 母が生きていたときに、母の居る生活が、ごく自然に感じて
いたのと全く同じように、

 いま現在では、母の居ない生活が、ごく自然に感じるのです。



 おそらく、これは、

 時間が経つことによる、「慣れ」の効果ではないかと思うの
ですが、

 この「慣れの効果」というのも、時間がもつ、とても大きな力
の1つであると、

 認識を新たにさせられ、それを実感した次第です。



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