母の1周忌
                              2017年3月26日 寺岡克哉


 3月24日に、母の1周忌の法事を行ないました。


 普段は、私と父の二人暮らしですが、

 この日ばかりは、親戚が集まって、久しぶりに賑(にぎ)やかな
日となりました。


          * * * * *


 さて、

 母が亡くなってから、まる1年経ったわけですが、

 いま現在における、私の心境としては、

 「母の居ない生活が、ごく自然に感じられる」ようになっています。



 恐らく、これが、「時間」というものの効果なのでしょう。



 もちろん、

 幼い子供を亡くしたり、災害や事件などによって肉親を亡くした
場合とは異なるのですが、

 よくテレビなどで報道されるように、災害や事件から何年経って
も、「この悲しみや、亡くなった人の無念は、絶対に忘れない!」

 というような、「激しい感情」が起こるのではなく、

 ただただ母の居ない生活が、ごくごく自然に感じられるのです。



 このことから私は、

 災害や事件などによる「非業(ひごう)の死」ではなく、

 「天寿(てんじゅ)を全(まっと)うした死」や、それに近い死に方
の場合。



 つまり、

 生きられる限り、一生懸命に生きて、その後に訪れた死の
場合は、

 月日が経つと、その死がごく自然に感じられるようになり、

 すんなりと心の底から受け入れてしまう・・・ 



 それが、

 「ふつうの人間の感性」であるような気がしてなりません。



 人間は、

 生きられる限り生き、死ぬ時が来たら、死ぬのが自然。

 いつまでも無理矢理に生かし続けるのは、ものすごく不自然。



 だんだんと実感を伴(ともな)いながら、

 そのような考え方にたいして、心の底から確信がもてるように、

 なってきた次第です。



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