神を愛するということ     2003年8月17日 寺岡克哉


 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しな
さい。」
                      (マタイによる福音書 22章37節)

 上の言葉のように「神を愛する」とは、一体どのようなことなのでしょうか?
 今回はそのことについて、私が感じていることをお話したいと思います。

 神を愛するとは、まず第一に、「神を一心に求めること」だと思います。
 それは例えば、
 「神と交わりたい!」
 「神とつながりたい!」
 「神と一つになりたい!」
と、大変に強く望むことです。
 この感情は、例えば「愛する異性と一つになりたい!」という気持ちと、よく似て
いるような気がします。しかしそれは、ただ単に異性と唇や体を重ね合わせるだけ
ではなく、「お互いに全てを捧げ尽くし、身も心も完全に一つに溶け合ってしまいた
い!」というような気持ちです。
 そのように「神と一つになりたい!」と、心の限りを尽くして誠心誠意に強く思うの
です。自分の全人格が、「神の無限の愛」と完全に融合したいと強く望むのです。

 しかしながら、「神への愛」と「異性への愛」のちがう所は、「神への愛」は「異性へ
の愛」よりも強くて大きなものだという所です。
 というのは、例えば異性との愛は、最初のうちは「お互いに身も心も全てを捧げた
い!」と強く思う時期が確かにあります。しかし時間が経つと、お互いの仕事の予定
やライフスタイルの違いなどが衝突し、どうしてもエゴとエゴとのぶつかり合いが起こ
ってしまいます。
 また、「相手の気持ちを一人占めにしたい!」とか、「相手の全てを自分のものにし
たい!」というような独占欲も起こって来ます。(この独占欲もエゴです。)
 それらのエゴがさらなる愛の増大を阻んでしまい、その時点で愛の増大が止まっ
てしまいます。だから異性への愛は、無限に愛が大きくなることはありません。それ
は、異性への愛には「エゴ」の部分が必ず存在するからです。
 しかし神への愛には、エゴとエゴのぶつかり合いが存在しません。だから
「神」は永遠に愛することができ、「神への愛」は無限に大きくすることが出来
るのです。

 神を長年に渡って愛し続けていると、「神への愛」は異性への愛よりも大きくなる
ことは間違いありません。(最近になって、私のこの確信はますます強くなっていま
す。)

 また例えば、神の愛は、恋愛の「片思い」にも似ているような気がします。
 「片思い」は、相手への思いがつのりにつのって、恋愛感情がどんどん大きくなっ
て行きます。そして相手を、どんどん理想化して行きます。
 恋に恋して、恋心がどんどん大きくなり、恋の相手が限りなく素晴らしい人に思え
て来るのです。
 しかしながら、実際の片思いの相手はあくまでも「人間」です。だからその相手は、
自分の作り上げた理想とは程遠いのが現実です。そして、その現実に気がついて
幻滅してしまうことが、「恋の熱が冷めた」という現象です。
 ところが神の場合は、「無限に理想化すること」が可能です。なぜなら神は、
自分の最高の理想の、さらにその上に存在するからです。だから「神への思
い」は、無限に高めて行くことが出来るのです。

 これは、「最高の理想をさらに超えるもの」に対する永遠の思いです。この思いは、
恋愛の片思いのように幻滅することがありません。
 神を愛すれば愛するほど、神を求めれば求めるほど、神を理想化すればするほ
ど、神への思いはつのり、神への愛は無限に大きくなって行くのです。

                * * * * *

 しかし「神を愛する」ということは、上のような精神的な快楽だけではなく、
大変に厳しく辛い面もあります。

 それは、「神の意志」に従うために自分を犠牲にし、嫌なことでも自ら進んで行う
という場合です。
 以下は、キリストが逮捕される直前に、「ゲツセマネ」という場所で祈っていた時
の言葉です。(この逮捕の後、キリストは裁判にかけられて有罪とされ、十字架に
つけられました。)

 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたし
の願いどおりではなく、御心のままに。」    (マタイによる福音書 26章39節)

 このときキリストは、悲しみもだえて大変に苦しんでいました。キリストほどの人
でも、やはり死ぬことは相当に嫌だったらしく、その場から逃げ出したかったに違
いありません。
 しかしキリストは、人類を罪から救うために、自ら進んで苦難に向かう道を選び
ました。これも、「神を愛すること」の一つの側面なのです。

 愛するもののためならば、自分の命をも厭わない・・・ 確かにこれは、愛の崇高さ
を表しています。そしてそれは、熱烈な恋愛や、自分の子供を守ろうとする親の行
動にもしばしば現れます。
 とは言うものの、上のキリストの場合はあまりにも極端で厳しい例です。だからそ
れに恐れをなして、「私はキリストのように神を愛することなどとても出来ないし、私
にそんな資格があるはずもない!」と、逃げ腰になってしまいそうです。
 「神への愛」に対してこのように厳しく考えてしまうと、返って人々を神から遠ざけ、
逆効果ではないかと私は思います。
 各人が自分の出来る範囲で神を愛し、それぞれのペースで日々愛の感情を高め
て行けば、それで良いのだと私は考えます。
 そして、多少は嫌なことがあったり嫌な人に出会っても、怒りや憎しみをぶつける
ことなく、優しく親切な気持ちを努めて維持すること。
 あるいは、ちょっと困っていたり難儀している人を見かけたら、こころよく手を貸し
てあげること。
 または、ちょっと落ち込んでいる人がいたら、そっと気づかってあげたり、さりげな
く元気づけてあげること。
 そのようなことでも、それは神の意志に従う行為であり、立派に「神を愛すること」
だと思います。



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