神に愛されるということ    2003年8月10日 寺岡克哉


 「神に愛される」ということは、どういうことでしょうか?

 私は、「神に愛されること」とは「存在すること」だと考えています。
 なぜなら、この世に存在するものは全て、「神の働き」に支えられて存在している
からです。(このような、「存在すること」に対しての「キリスト教的な考え方」につい
ては、前回のエッセイ76を参照して下さい。)

 ところで私の言う「神の働き」とは、超自然的な力のことではありません。時間や
空間、物質、そして生命を、この世に存在させている諸々の作用や働き。自然の
法則。自然の原理。自然の摂理といったものです。
 つまり、「この世を在らしめる根本の原理」です。

 しかしこのような考え方には、「この世を在らしめるのが神ならば、さらにその神
を在らしめるものは何か?」という疑問がつきまといます。
 神を在らしめる神。その神を在らしめる、さらなる神・・・と、どこまで行っても限り
がありません。ちょうど、この世に存在するものは全て、無限に続く因果関係によ
って存在するという「仏教的な考え方」(エッセイ76参照)と、同じになってしまい
ます。
 しかし私は、無限に続く因果関係をも含めて、「この世を在らしめる根本の
原理」を、「神」の定義の一つとしています。

 だから実は、存在することに対する「仏教的な考え方」も、私の言う「神の概念」
に含まれてしまいます。(私のこの立場は、エッセイ74で既に表明しています。)

 ところで「神」の概念は、数学の「無限大」の概念と似ているように思います。
 というのは、無限大という「具体的な数」を示すことは出来ませんが、無限大とい
う「概念」は存在するからです。
 例えば、1000兆の1000兆倍の、さらにまた1000兆倍というような、非常に大
きな数(N)を無限大と決めてみます。そうすると、その数に1を加えたさらに大きな
数(N+1)がどうしても存在してしまいます。これは、どんなに大きな数(N)を考え
ても全く同様です。
 だから、「これが無限大という数だ!」というような、「具体的な数」を示すことは絶
対に出来ません。しかしながら、無限大という「概念」は存在するのです。

 神の場合もこれと同じです。「これが神だ!」というものを、具体的に示すことは出
来ません。なぜなら、「これが神だ!」というものを具体的に示したら、その神を在ら
しめる「さらなる神」がどうしても必要になるからです。
 例えば、「この地球に生命を誕生させたものが神だ!」とか、「この宇宙をビッグ
バンによって創造したのが神だ!」というように神を具体的に示してしまうと、その
神を在らしめる「さらなる神」がどうしても必要になります。
 だから、「具体的な神」を示すことは絶対に出来ません。しかし、神という「概念」
は存在するのです。

 話がそれたのでもどしますが、「神の働き」が作用しなければ、あらゆるものは存
在できません。この世の全てのものは、「神の支え」があってはじめて存在できるか
らです。
 つまり神は、この世に存在する全てのものが、存在するように望んでいます。
 そして一般的に、「存在を望むこと」とは「愛すること」です。
 例えば・・・愛する人、愛する家族、愛する動植物、愛する国や組織、愛する自然、
愛する地球・・・。これら自分が「愛するもの」はみな、それらが「存在すること」を自分
は望みます。
 逆に「憎しみ」は、存在を否定し、消滅を望むことです。憎い人間、憎い組織、憎い
制度、憎い国・・・。これら「憎いもの」はみな、存在しなければよいと願い、その消滅
を望みます。
 このように、「憎しみ」が「存在の否定」であることを考えれば、「愛」が「存在の肯定」
であることが納得できると思います。

 つまり神は、この世に存在する全てのものを愛しているのです。
 だから「存在する」ということは、「神に愛されている」ということなのです。
 あなたや私が今ここに存在できるのも、神に愛されているからです。
 あなたや私が存在すること。まさにそのことが、あなたや私が神に愛されて
いる証拠であり、神とつながっている証拠なのです。

 しかしながら、なぜ苦しみや不幸も存在するのでしょうか?

 この世に存在するものは全て、神の働きによって存在しているはずです。だから苦
しみや不幸が存在することを、神は否定していないはずです。
 この疑問に対して私は、「この世に存在するものは何であろうと、神はその存
在を否定していない!」
と考えます。
 例えば、身長が100メートルの人間だとか、寿命が1000年の人間だとか、光の
速度よりも速く運動する物体だとか、そのような「自然法則によって存在を禁止され
ているもの」は、神によってその存在を否定されています。
 しかしながら、苦しみや不幸は、神によってその存在を否定されていないのです。
なぜなら、苦しみも不幸も、事実この世に存在するからです。

 しかし人間には、安らぎや幸福を望み、苦しみや不幸を嫌うという性質が存
在します。人間のこの性質も、神の働きによって存在しているはずです。

 つまり、ビッグバンによって始まった宇宙の進化と、地球に最初の生命が誕生し
てから始まった生命の進化を経て、人間は安らぎや幸福を望み、苦しみや不幸を
嫌う存在になったのです。
 善と悪。安らぎと苦しみ。幸福と不幸。喜びと悲しみ。そして愛と憎しみ・・・。
 神はそれら全てをこの世に存在させて、人間がより望ましい存在、より存続が可
能な存在、より善い存在になるように、人間を導いているのだと思います。
 正常な人間は、悪より善を望み、苦しみより安らぎを、不幸より幸福を、悲しみよ
り喜びを、そして憎しみより愛を望みます。そして、そのような望みが叶うように行
動します。
 それは、人間がそのような生物として存在するように、神が常に働きかけている
からです。
 確かに、世の中には嫌なものや、存在しない方が良いものがたくさんあり
ます。しかしそれは、「人間がより善い存在になるため」の道しるべだと思う
のです。

 人間は、そのように神から愛されているのだと思います。



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