拙書の紹介を終えて
                              2016年6月26日 寺岡克哉


 前回のエッセイをもって、拙書 ”生命の「肯定」” の紹介が終わりました。



 なんと14年ぶりに、拙書をじっくりと読み返すことになりましたが、

 今になってみると、けっこう強引で独善的な表現が、多々あったように感じ
ます。

 しかしそれは、執筆当時の「必死な思いの表れ」であったことも、懐かしい
気持ちで思い出すことができました。



 とにかく、

 拙書を執筆していた当時の私は、ものすごく追いつめられていました。

 「もしも自分の考えが、世間に認められなかったら・・・ 」

 「もしも他人によって、私の考えが否定されてしまったら・・・ 」

 「もしもそんなことになったら、私は自分の拠って立つ存在基盤を失って
しまう・・・ 」

 と、いうような、とても切羽詰まった思いに駆られ、苛(さいな)まれていた
のです。

 つまり自分の考えに、まだ自信が持てなかったのですね。

 それで、拙書を書きながら自分自身をも説得するかのように、強引な表現
を使ったのでした。



 しかし、いま現在の私は、そのような切羽詰まった気持ちが無くなってしま
いました。

 というのは、

 自分の考えと他人の考えが、まったく完全に同じになることは、絶対に
あり得るはずがないし、

 自分の考えと、他人の考えが違っているのは、ごく当たり前のことです。

 そしてまた、

 自分の考えが世間に認められなかったり、他人から否定されたからと
言って、自分の存在基盤を失うわけではありません。

 たとえば他人の指摘によって、自分の考えが間違っていたと本当に納得
したならば、その間違ったところを修正すれば良いし、

 その逆に、自分への批判にたいして納得が行かなければ、たとえ世間に
認められなくても持論を保持すれば良いのです。



 そのようなことを、ごく自然に心から受け入れることが、出来るようになり
ました。

 つまり現在の私は、

 「何が何でも、自分の考えを世間に認めてもらわなければならない!」

 「それが出来なければ、私は自分の存在基盤を失ってしまうのだ!」

 という切羽詰まった思い込みから解放され、かなり落ち着いた気持ちで
文章が書けるようになったのです。



 そのような自分自身の変化を、拙書の紹介を終えて、しみじみと感じた
次第です。



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