生命の「肯定」 30
                              2016年6月12日 寺岡克哉


 今回は、いよいよ本書における最後の節を紹介します。


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6-4 一生を通して生命肯定の努力をせよ!

 「一生を通して生命肯定の努力をせよ!」

 私がこの本で言いたかったのは、この一言に尽きる。そしてそのためには、

 「生命の肯定は間違いであり、生命を肯定しなければならない!」

 という生命の真理を、「理性」によって理解しなければならない。なぜなら、理性
の介さない盲目的な信仰による生命肯定の方法(宗教)は危険を伴うからである。


 ところで私は賢こぶった厭世家(ペシミスト)が大嫌いである(注123)。自己
否定を強要する社会風潮(注124)も、他人の不幸を喜ぶ社会風潮(注125)
も大嫌いである。これらのものは生命の否定を蔓延させるからである。衣食住に
不自由しなくなったのに、人類が依然として不幸になっているのは、理性を生命
の否定に向けるからである。人類は「理性を自己管理」する必要に迫られている。
これは、ただ単に理性によって感情を抑えるという次元のものではない。理性を
生命の肯定に向けるように「理性の働き」そのものを、個々の人間がその責任に
おいて自己管理しなければならないという意味である。そしてこれこそが、本当の
意味での「個の自立」なのである(注126)

 人間が本当に幸福になるためには、理性を駆使して生命肯定の努力を行わな
ければならない。人間はそのことによってのみ、人生の意味と目的を得ていきいき
と生きることが出来るようになる。ところで生命の肯定とは、大生命と大愛の存在
を実感し、自分の絶対価値を認識して正しい自己愛を持ち、隣人を愛し人類を
愛し、さらには地球の生命全体を愛して、愛の進化と発展に貢献することである。
しかしこれは、非常に難しいことであり、普通の人間が「生命肯定の完成」の境地
に到達するのはほとんど不可能であろう。

 しかしながら、生命肯定への「努力」は誰にでも実行可能である。ここにのみ、
全ての人間が確実に幸福になれる現実的な答えが存在する。

 生命肯定の努力を行うことは、それがそのまま幸福な状態である。生命肯定の
努力を行っている状態とは、優しさ、安らぎ、希望、やりがい、生きがい、充実など
を努めて感じている状態である。だから決して苦労や苦痛を伴うものではない。
生命肯定の努力は喜びや楽しみを感じる幸福な状態なのである。

 幸福の本質は、怒りや憎悪などを出来る限り少なくし、そして一日に一度は
「生命」に対して愛と感謝の気持ちが起こるような、そんな毎日の平安な生活の
中にある。非常に平凡ではあるが、これこそが人生に対する最高の答えである。
生命肯定の努力とは、ことさらに力んで何か特別なことをするというのではなく、
このような平安で幸福な生活を務めて維持するということなのである。全ての人間
は、生涯に渡り力の限りを尽くして生命肯定の努力をしなければならない。それが
生命の法則にかなった、合理的で幸福な生き方だからである。生命肯定の生き方
は人間が勝手に考えたものではない。生命の摂理に根ざした生命本来の生き方
なのである。


 ところで、生命肯定の努力は愛の進化に何らかの貢献をすることであるから、
「生命」そのものの存在意義を高める行為である。だからこれは生命全体(大生
命)にとっても、最も大切な「生命の仕事」なのである。

 あなたが行った生命の仕事は、あなただけが成し遂げたものであり、あなた
以外の人間には絶対に出来ないことである。そしてあなたの生命の仕事の「波及
効果」は、大生命の中で永遠に生き続けていく。それがたとえどんなに小さなもの
であろうとも、たとえどんなに変化していこうとも、さらには人類が滅びることになろ
うとも、あなたの生命の仕事の波及効果は絶対に消滅しない。あなたの生命の
仕事の波及効果は必ず何処かに作用し、さらに新しい波及効果を呼んで、どん
どん広がっていく。だから、一見するとどんなに目立たない効果であっても、その
影響力の総和は無限大であり、計り知れない(注127)

 つまり、あなたが行った生命の仕事は、あなただけが成し遂げたものであり、
またその波及効果は、大生命の中で永遠に生き続ける。ゆえに「あなたの生命の
意義」は、永遠に生き続けて無限大の影響力を持つ。

 このことにより、「自分は生まれても生まれなくてもどうせ同じなのだ」とか、「一生
懸命に生きても死ねば一切が無意味になるのだから、結局生きることは全て無意
味なのだ」というような、個の生命観の苦悩から救われる。個の生命を無意味から
救ってくれるのは、大生命なのである。


 人類を含めた地球の全ての生物は、大生命によって生まれ、大生命の一部に
なり、大生命に愛され、大生命に生かされ、大生命のために生き、大生命のため
に死んでいく。人間は大生命の意志にかなう「生命の仕事」を行い、大愛に抱か
れて安心して生き、大愛に抱かれて安心して死ねば、それで全く良いのである
(注128)



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注123:
 たとえば、いつも悲観的で否定的なことしか言わず、自分では何一つ行動
しないのに、他人や世間を見下しているような人間・・・ 私は、そんな人間が
大嫌いです。
 (しかし、じつは私自身にも、そのような傾向がまったく無いわけではありま
せん。)


注124:
 たとえば会社の「いじめ」や「パワハラ」などで、「自分は役立たずで無能な
のだ・・・」と、強制的に思い込まされるような風潮。


注125:
 たとえば悲惨な事件や事故などが起こると、テレビで必要以上に騒ぎ立て
たり、インターネットで「メシウマ」などと言って、はしゃぎ立てるような風潮。


注126:
 つまり、「理性の管理(理性を働かすべき方向性の決定)」を、
 宗教的な教義(たとえばキリスト教における罪の意識など)や、
 学校や企業などの価値観(たとえば成績主義、能力主義、年功序列主義など)
や、
 社会的な風習(世間の常識や世間体)などに、
 「丸投げ」をして何の疑問も持たず、それらに自分の理性が流されるのではなく、

 「あくまでも個々人が自己の責任において、理性を自己管理すること」が、本当
の意味での「個の自立」ではないかと私は考えています。


注127:
 たとえば、あなたが何となく偶然に助けた小さな生き物の子孫が、何億年か
後には、人類よりも高等な生物に進化しているかも知れないのです。


注128:
 正直に申し上げて、まだ私自身は、このような境地に達していません。
 しかしながら自分が死ぬときは、「大きな愛」に包まれ、抱かれていることを
心の底から確信し、
 まったく安心して死んで行けるような、そんな死に方がしたいと切に望んで
います。
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 今回をもって、本文の紹介は終わりました。

 次回では、「あとがき」と「参考文献」を紹介したいと思います。



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