生命の「肯定」 25
                               2016年5月8日 寺岡克哉


 前回は、第2部・第4章の終わりまで紹介しました。

 今回は、第2部の第5章から紹介して行きたいと思います。


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第5章 生命の存在意義

5-1 生命に存在意義を与えるのは愛である
 はたして生命が存在することに意義があるのか? という疑惑・・・ 例えば、

 「生命の存在に意味などあるのか?」
 「生命が存在することは、はたして良いことなのか?」
 「生命の存在は、悪以外の何ものでもないのではないか?」
 「生命など存在しない方が良いのではないか?」

 これらのような疑惑に対し、「生命の存在は良いことだ!」と主張できる確か
な根拠がある。それは、生命に「愛」が存在するという事実である。例えば、
感動、希望、情熱、喜び、楽しみ、優しさ、安心、思いやり、いたわり、慈悲、
平和、調和、一体感、相互援助、自己犠牲など、これら生命の善い特質は
全て愛が動機となって生じている。つまり、

 「生命の存在は素晴らしい!」
 「生命には価値がある。」
 「生命の存在には意義がある。」

と、我々が思うことの出来る生命の特質は、全て愛から生じている。ゆえに、
生命に存在意義を与えているのは「愛」なのである(注115)

 例えば、逆にもし生命に愛というものが全く存在しなかったら、生命の特質は
苦悩、苦痛、欲望、闘争、怒り、憎悪、妬み、焦燥、不安など、悪くて嫌なもの
だけになり、生命の意義は喪失する。つまり生命に愛が存在しなければ、苦悩
や苦痛に耐えて生きなければならない理由も、生きる目的も、生きる意義も
生きる価値も、全て喪失してしまう。生命に愛がなければ、生命など存在しない
方が、生きる苦しみが存在しないだけよほどましである。

 また、愛の存在しない苦しみだけの生命は、非合理で無意味であるが、さら
にそれだけでなく、苦しみ以外に何もないような生命は、存在すること自体が
「悪」である。なぜなら、生きる目的や生きる意義、または生きる価値などを何も
与えられず、ただ理不尽に苦しむだけ苦しめられて最後に死ぬというのでは、
それこそ「悪」以外の何ものでもないからである。ゆえに愛のない生命は必ず
悪になり、「生命の存在は善である」と言える根拠も、生命に愛が存在するから
なのである(注116)


 ところで前に述べたように、愛の進化によって愛は高度になり発展して来た。
そして今述べたように、生命の存在を善にするものが愛だから、愛の高等化と
発展は生命がさらに「善なる存在」になっていくことである。つまり生命は本質
的に善いものになりたいのである。愛の進化により、生命はこれまで善いもの
になって来たし、今後さらに善いものになっていくであろう。だから生命に愛と
その進化がある限り生命の存在は善であるし、その善は増大し続ける。

 ところで、「愛など存在しなくても、快楽や欲望の追及が生命の意義になり
得るのではないか?」と、まだ疑問に思う人がいるかも知れない。しかしそれ
は間違いである。その理由は第一部に述べてあるが、ここでもう一度その要点
を簡単に述べる。

 まずはじめに、快楽の追及が生命の意義になり得ないのは、食欲や性欲な
どの肉体の快楽には生物としての限界があり、この限界を超えて快楽を求め
ると快楽が苦痛に逆転するからである。そして、その限界まで徹底して快楽を
追求しても、根源的な苦による無限の欲望は満たされないからである。ゆえに
快楽の追及は生命の意義になり得ない。言うまでもないが酒や麻薬による快楽
も同様である。これを徹底的に追及すれば、心と体を破壊してしまい、生命の
意義にならないどころか、生命の破壊になる。

 次に、金や地位など、欲望の追及が生命の意義になり得ないのは、これらは
獲得できないと渇望して苦しみ、また、獲得してもその途端にさらなる渇望に
苦しむからである。しかもこの苦しみは、金や地位などを獲得すればするほど
強くなる。これも根源的な苦によって生じる無限の欲望が原因である。しかし、
金や地位は「有限」であるから、これらによって無限の欲望を満たすことは不可
能である。ゆえに、欲望の追及も生命の意義になり得ないのである。

 また、このように快楽や金、地位などを徹底的に求めれば「快楽や欲望をいく
ら追求しても根源的な苦は解消できない!」ということを証明してしまう。そして
この認識が、快楽や欲望の追求によって根源的な苦を誤魔化すこと(人生を
誤魔化すこと)を不可能にし、苦しみをさらに耐え難いものにする。さらにまた、
快楽や欲望の追及には他者との闘争が常につきまとい、これによる苦悩や苦
痛も闘争の激化に伴って、留まるところを知らない。以上により、快楽や欲望の
追求は生命の存在意義にならないどころか、逆に快楽を苦痛に変え、渇望の
苦しみを増やし、根源的な苦による不安や焦燥を耐え難いほど強くし、闘争を
激化させるだけである。根源的な苦による無限の欲望は、愛を無限に与える
ことによってのみ、その解消が可能なのである。だから、愛のない生命はどう
頑張ってみても、苦悩や苦痛、憎悪、怒り、不安、焦燥、闘争だけの生命になり、
その存在意義を失ってしまう。以上から、生命に存在意義を与えるもの、そして
生命の存在を善にするものが「愛」なのである。



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注115:
 「生命の存在意義」などというのは、おそらく人間だけが考えることでしょう。

 たとえば細菌やプランクトンから、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳
類までの、およそ人間以外の生物はすべて、「生命の存在意義」など全く考え
ることなく、ただ在るがままに生きて存在しているに違いありません。
 なので「生物学的」には、「生命の存在意義など存在しない」というのが、おそ
らく真実なのだと思います。

 しかしそれは、あくまでも「生物学的」に議論を限定した場合です。

 たとえば「人間の理性」(人間が持つ高度な思考能力)は、「生命の存在意義」
というものを強く求めているのは事実だし、
 そして本書の目的は「生命の肯定」、つまり生命の存在を肯定して生き生きと
生きることです。

 これらの理由から私は、「生命の存在意義は存在する」という立場を取って
います。


注116:
 「善」とか「悪」という概念も、じつは人間が考え出したものであり、人間以外
の生物は、善悪の概念などに関係なく、在るがままに生きて存在しています。
 しかしながら本書は、「生命の存在は善いことである」と生命を肯定するのが
目的なので、生命にたいして善悪の概念を適用しています。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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