生命の「肯定」 23
2016年4月24日 寺岡克哉
前回は、第2部の第4章1節まで紹介しました。
今回は、その続きです。
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4-2 高度な愛の具体例
高度な愛の例として私が最初に挙げたいのは、現代の日本が国家の意志
として「戦争を放棄」したことである(注109)。戦争の放棄は、愛の進化という
観点から見れば非常に進んだものである。これは人類史に特筆すべき重要な
思想遺産であり、今後の人類進化の進むべき方向を指し示しているとさえ言え
る(注110)。この思想を人類が獲得するために、実に何千万もの生けにえを
ささげて来たのである(注111)。このように人類史上、最低最悪の残虐行為
である第二次世界大戦でさえ、愛の進化の原動力となり得るところに、私は
大生命の懐の深さと生命肯定の救いを感じている。
また「菜食主義」は現在でもあまり普及していないが、しかしこれも非常に高度
な愛の概念である。この愛は、その対象が人間以外の動物にまで及んでいる
からである。仏教には不殺生の教えがあり、僧侶は主に菜食である。動物といえ
どもそれを殺せば哀れに感じるのは、自然に起こる愛の感情である。特に農耕
民族にとってはそうであろう。それはウシやブタなどのと屠殺(とさつ)現場を実
際に見るならば、ほとんどの人が納得すると思う。ところで動物を食べるのを控え
るならば、クジラ、ウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギなどから徐々に控えていくのが良いと
思う。体にどうしても必要な動物性たんぱく質は、卵や乳製品や魚類などへ移し
ていき、さらに将来食品開発が進めば、植物や昆虫やプランクトンなどを原料に
した合成食肉が開発されるであろう。しかし肉食の撲滅が人類の常識となるまで
には、まだかなりの時間がかかると思う。
薬品開発などで行われる「動物実験」を批判する人々もいるが、これも非常に
高度な愛の概念である。しかし、新薬の開発に人体実験をするわけにはいかな
いので、現段階では最小限の動物実験はどうしても必要である。そして、癌や
エイズなどの不治の病気が存在する以上、新薬の開発を止めることは出来ない。
だから、動物実験の廃止は前述の肉食を止めるのより、さらに困難なことであ
る。しかしながら、動物実験は必要最小限に抑える努力をしていくのが愛の進化
の正しい方向である。そして犠牲になってくれた動物達には心から感謝するべき
である。
ところで、スポーツハンティングやスポーツフィッシングなどの娯楽のための
殺生は、食肉や動物実験よりも先んじて止めるべきものである。なぜなら、食肉
や動物実験にはまだその必要性が認められるが、娯楽のための殺生には何ら
の必要性も必然性も認めることが出来ないからである。野生動物でさえ満腹の
時には無意味な殺生をしない。人間だけが娯楽のための殺生を行うが、これは
明らかに大生命の意志に反した行為であり、人間を動物以下の存在に貶めて
いる行為である。
前に述べた「植物の愛」は、愛の対象が動物のみならず植物にまで及んだ
ものであり、菜食主義よりもさらに進んだ愛の概念である。しかし現状では植物
を食べずに済む方法は存在しないので、我々にはどうすることも出来ない。植物
の能力に対して人類は全く頭が上がらないのであり、植物の愛に対して我々は
ひたすら感謝するより他ないのである。
大生命の「大愛」は、植物の愛よりもさらに高度な愛の概念である。なぜなら、
大愛は今まで人類の得た知識や経験を総動員してようやく認識のできる、非常
に高度な愛の概念だからである。人類が大愛の認識に至るまでには色々な知識
や経験の蓄積が必要であった。
例えば、物質から生命が発生したのが奇跡的な出来事であること。
地球の生命が四〇億年も続いて来たこと。
生命が進化するものであること。
その進化により、生命が発展、多様化、高等化を続けていること。
植物の働きによる酸素やオゾン層の生成、森林の保水能力による砂漠の防止、
サンゴによる炭酸ガスの固定など、地球環境が生物の働きによって作られている
こと。
食物連鎖や共生など、生物間には色々な生態系が存在すること。
植物が食物連鎖の最初となることで、地球の生物全体が維持されていること。
地球の環境が、生態系の微妙なバランスの上に成り立っていること。
有人宇宙飛行の成功により、宇宙が死の世界であるのが実感として認識され
たこと。
人工衛星から見た地球の映像により、地球が意外に小さなものであると認識
されたこと。(宇宙船地球号の認識)
地球のような生命に満ちた星は、宇宙の中でも簡単には捜すことの出来ない
ぐらい非常に希な存在であること。
地球の大気や地下資源が無尽蔵ではないこと。
大規模な自然破壊や人類の吐き出す化学物質(フロン、二酸化炭素、ダイオ
キシン等)により、地球環境が容易に変わり得ること。
正常な地球環境の中でなければ我々人類といえども健全には生きていけない
こと。
核兵器の開発により、全面核戦争による人類の絶滅と、生態系の完全な破壊
を実現可能にしてしまったこと。
・・・まだまだ沢山あると思うが、以上のような知識と経験の積み重ねにより、
大生命や大愛の概念が徐々に認識されてきた。このように人類の認識の進歩と
ともに愛も進化し、愛の対象は広く深くなって来たのである。
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注109:
日本国憲法の第9条・第1項で、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際
平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使
は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明言しており、
日本が国家の意志として「戦争を放棄」しているのは明確です。
しかしながら近年、憲法を改正して、「日本を戦争のできる国」にしようとする
動きが、ものすごく活発になっています。とても憂慮すべき事態としか言いよう
がありません。
たしかに国際テロの脅威や、近隣諸国との緊張や摩擦などが増加しており、
日本も何らかの安全保障対策をとる必要に迫られています。
しかしだからこそ、「過去の大惨劇」つまり第二次世界大戦を十分によく吟
味(ぎんみ)して、二度とそのような悲惨な事態を招かないようにしなければ
ならないのです。
「憲法改正」と「軍備増強」への道は、どうしても、「過去の大惨劇」に近づい
て行くような気がしてなりません。
やはりここは、すこし弱腰に見えるとしても、あくまでも憲法9条を堅持しつつ、
それを根拠として「積極的な戦争への参加を拒み続けていく」方が、日本の
国益にも適っているように思えます。
注110:
昨年、日本の憲法9条が、一昨年(おととし)に続いてノーベル平和賞の候補
になりました。とてもすばらしいことだと思います。
ぜひとも、憲法9条がノーベル平和賞をとって、「戦争を放棄した国」が存在
することを、世界に広く知ってもらいたいと願っています。
注111:
しかしながら現在、このような「ものすごく痛い思いをしたこと」を、多くの国民
が忘れてしまったように感じます。
(もちろん私も、第2次世界大戦が行われのたは生まれる前のことであり、
「ものすごく痛い思いをした」という実感は持っていません。)
ところで、これまで憲法9条が多くの国民に支持されてきたのは、「もう二度と、
こんな悲惨な戦争などしたくない!」という思いが、とても強かったからでしょう。
しかし昨今では多くの国民にとって、そのような「悲惨な思い」が薄らいできた
ために、右翼系の政治家たちが憚(はばか)らずに憲法改正を主張するように
なってきたのだと思います。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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