生命の「肯定」 21
2016年4月10日 寺岡克哉
前回は、第2部の第3章3節の途中まででした。
今回は、その続きです。
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話が少しそれたが、とにかく自己肯定と他人肯定の増幅循環がやっと出来た
段階では、自己愛の力がまだ弱いので、自己否定の人間からは距離を置かな
ければならない。今後さらに愛する能力が向上すれば、自己否定の人間をも
自己肯定に導けるようになるが、自己愛の弱い間は自分が沈没しかねない。
つき合うなら自己肯定の人間とつき合うと良い。いく分かの自己愛を持っている
今なら、自己肯定の人間とつき合うことが出来るはずである。なぜなら、以前は
自分を惨めにし、脅かす存在であった自己肯定の人間が、今では自分の愛する
能力を増大させてくれる好ましい存在に変わっているからである。
自己肯定の人間の見分け方を若干説明すると、次の通りである。
自己肯定の人間は、常に他人肯定も目指し努力している。たとえ見かけ上は
厳しかったとしても、真の包容力があり、他人に対して相手も自己愛が持てる
ように骨を折る。そして何より、自己肯定の人間はいきいきしており、希望に満ち
た目に輝いている(例えばダライ・ラマ14世の目は、非常にいきいきと輝いて
いる)(注106)。また、自己肯定の人間は、他人のすばらしい所をよく見つけ
て的確に褒めること(ごますりではなく)が出来る。なぜなら、他人を褒めることに
よって、自分の存在が脅かされないからである。
自己肯定の人間とつき合う時は、お互いに愛を与え合って愛を増幅し、さらに
愛する能力を高め合うようにしなければならない。決して相手から愛を貪り取ろう
などとしてはいけない。なぜなら、「愛は与えることによって与えられる」からであ
る。
ところで相手に愛を与えることと、相手から愛を得ようとすることとは、「愛する」
という同じ言葉でくくられて混同されている。しかし、両者の本質的な意味は大き
く異なる。なぜなら、愛は得ようとすればするほど失われて減少し、与えれば与え
るほど逆に与えられて増加するからである。これが愛の増減の法則である。お金
や物の増減の法則と逆なのである。これが愛を非常に難解なものにしている原因
である。
大多数の人間が、この愛の増減の法則と、金や物の増減の法則が逆になって
いることに全く気がついていない。だから非常に多くの人間が、相手から愛を得よ
うと苦心惨憺(さんたん)しているにもかかわらず、愛を得るどころか反対に愛を
失い、不幸になっている。例えば、「私はあなたをこんなにも愛しているのに、なぜ
あなたは私を愛してくれないのだ!」という心境の場合、この時の「私はあなたを
愛している」というのは、「私はあなたの愛を得ようと欲している」という意味なの
である。一方「与える愛」とは、「あなたが何かで困っていたら何とかして助けて
あげたい。その逆にあなたが元気で幸せならば、それだけで私も幸せだ。」とか、
「たとえあなたがどんな状況になろうとも、私はあなたを決して嫌いにならない」と
いう心境のことである。与える愛とは、本当に相手のことを第一に考える愛である。
得ようとする愛は、本当は自分のことしか考えていない。例えばストーカー行為な
ども、非常に強く「愛している」ことには違いないが、この自分勝手な愛の貪りに
よって相手から愛を得られる可能性など絶対にない。ストーカーは極端な例だと
しても、一般に愛を与えてくれる相手に対しては自分も愛を与えたいと感じるが、
自分から愛を貪り取ろうとする相手に対して不安や憎悪を感じるのは、しごく当然
な心情である。だから愛は得ようとすればするほど失われ、与えれば与えるほど
得られるのである。また、さらに愛の法則についての探求を進めていくと、こういう
ことが分かる。
「愛を与えることそのものが、同時に愛と幸福の増大である」
はじめのうちは、相手から愛が与えられることを期待して相手に愛を与える。
しかしそのうち、「相手からの愛を求めること」それ自体が、愛の増大を阻んで
いることに気がつく。そして相手から愛を得ることが真の幸福なのではなく、相手
に愛を与えることそのものが、自分の幸福の本質であることを悟る。
周囲の人間に向かって自分がいつも愛情をそそいでいれば、それが同時に
自分の幸福なのである。逆に、周囲の人間に対して怒りや憎悪をむき出しにすれ
ば、それが同時に自分の苦悩と不愉快と不幸である。さらに悪いことには、自分
が周囲の人間を憎悪していれば、周囲からいくら愛を与えられようと、それこそ
無限の愛情をそそがれたとしても、その人間は周囲から愛されていることに気が
つかないどころか、逆に周囲の人間から憎まれているとさえ感じる。つまり、
「自分が相手から愛されているのか否かに関わりなく、自分から相手に愛を
与える」ということが、愛と幸福を増大させる本質なのである(注107)。
以上に述べた愛と幸福を増大させる法則が理解できれば、あとは恐いもの
なしである。なぜなら、根源的な苦から生じる無限の欲望を、愛と幸福の増大
に向けることが可能になるからである。つまり無限の欲望のほしいままに、愛を
与えて、与えて、与え続けるのである。するとそれに応じて自分が幸福になる
から、欲望がどんどん幸福で満たされていく。愛は無限に与えることが可能で
あるから、無限に幸福になることが可能である。
このように、隣人愛は無限の欲望を無限の幸福で満たすことの出来る画期的
な方法である。根源的な苦によって生じる無限の欲望は生命の原動力であった
が、このようにすると生命の原動力を抑制する必要がなく、健全におもいっきり、
やりたい放題に生命の原動力を解放することができる。もう、あの息の詰まる
ような苦しさから解放されているのである。
こうなると、愛する能力も限りなく向上し、自己否定の人間をも愛することが
出来るようになる。そして、自己否定の人間を自己愛に導くことが出来るように
なり、これによって自分もさらに幸福になる。以前は自分の足を引っ張る存在
であった自己否定の人間でさえも、今では自分の幸福を増大させてくれる存在
に変わるのである(注108)。
さらに愛が増大した究極においては、キリストが言っているように、自分の敵
でさえも愛と幸福を増大させてくれる存在になり、敵を心から愛することが出来
るようになるのかも知れない。
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注106:
ダライ・ラマ14世の人生と、「チベット問題」のことを考えれば、あの人が
希望を失わず輝いた目をしていることに、ものすごく驚嘆(きょうたん)します。
注107:
この、自分から愛を与える「相手」というのは、「生きている人」だけでなく、
「亡くなった人」も対象にできることが、最近分かりました。
たしかに、「故人に愛を与える」というのには、すこし語弊(ごへい)があるかも
しれません。
しかしながら、たとえば故人のことを思い出し、「故人を優しく思いやること」
によって、安らかで幸福な気持ちになれるのです。
注108:
残念ですが、現在の私でも、まだこのような境地には達していません。
本文中の「自己否定の人間でさえも、今では自分の幸福を増大させてくれる
存在に変わる」というのは、私が実際に体験した心境ではなく、たぶんそうなる
だろうという「予想」を書いたものでした。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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