生命の「肯定」 19
                              2016年3月20日 寺岡克哉


 前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第2部の第3章1節まで紹介しました。

 今回は、その続きです。


               * * * * *


3-2 自己愛へのアプローチ(注89)
 まずはじめに、根源的な苦と自己否定の悪循環を断ち切らなければならない。
いくら自分で自分を責めたところで、周りの者が同情や理解を示してくれないど
ころか、かえって反感をもたれてしまう。そして、周囲との人間関係がうまくいか
なくなり、自己否定がさらに強くなる。これもまた、自己否定の増幅循環である。
だから、自己否定や自己嫌悪をいくら強くしても状況の改善に何の役にも立た
ないどころか、逆に非常に有害であることを、一刻も早く悟らなければならない。
自己否定が有害であることを悟るには、

 自己否定は、自分で自分を苦しめている愚かな行為であること。
 自己否定は、無意識のうちに周囲に憎悪を振りまいていること。
 自己否定は、自殺や犯罪にまで発展する可能性があること。
 自己否定は、自分だけでなく、周囲の人間をも不愉快や不幸に巻き込んで
しまうこと。
 自己否定を強めたところで、周囲の同情などは、決して得られないこと。
 自己否定は、大生命の意志に反した行為であること。

 ・・・などの認識が助けとなる。また、自己否定の妄想を断ち切るには、座禅を
組んで瞑想したり、風呂に入ってリラックスしたり、散歩やジョギング、自転車など
の軽い運動が有効である。これらの方法により自己否定の妄想が弱まって来た
ら、根源的な苦を純粋に感じるようになる。つまり、

 「自分を何とかしなければ・・・・・」
 「このままでは駄目だ・・・・・」
 「生きていてもつまらない・・・・・」
 「生きていても苦しいだけだ・・・・・!」

というような具体的な言語による切迫感が弱まる代わりに、漠然とした焦燥や
不安が迫ってくる。しかし、この時これは苦悩なのではなく大切な生命の原動力
であると認識し直すのである(注90)

 次にいよいよ自己肯定へ一歩踏み出すわけだが、この時、自己肯定への
意志と決意を高めるためには、「大生命の生命観には大愛や絶対価値が存在
し、これによって自己否定の解消が必ず出来る」という認識が助けになる。大愛
によって自分が愛され、生きることを赦され、受け入れられていることを実感しよ
う。大きく一回深呼吸をして、大生命と大愛の存在を実感すると良い。大気に酸素
があるのは大愛の働きである。また、「自分にも必ず絶対価値が存在している」と
いう「事実」を素直に認め、それを一心に信じるのである。そして、根源的な苦を
原動力にし、意識の全てを自己肯定に向ける。自己否定的な考えを一切やめ、
自分を愛することに全ての意識を集中するのである。例えば、

 少しでも自分の良い所を一生懸命に探す。(自分の長所のリストを作る。)
 何かをやり遂げた時のこと、達成感と充実感に満ちている時のことを思い出す。
 褒められた時のことを思い出す。
 楽しい時や、嬉しい時のことを思い浮かべる。
 美味しいものを食べた時のことを思い出す。
 自分の好きなことについて考える。
 自分の好きな人を思い浮かべる。
 自分のやりたいことを自由に想像し、自分に自らの制限を設けない(注91)
 何かやってみたいことが出来たら、気楽な気分でやってみる(同注91)
 歌や鼻唄を歌う。
 好きな音楽を聞いたり、好きな映画を見たり、好きな本を読む。
 常に安心とリラックスの状態を心がける。
 すべてがうまくいっていると感じるようにする。
 自分のことをあまり深刻に考えすぎないようにする。
 今の自分で十分によくやっていると思うようにする。
 焦りや不安や不快を感じさせるものを自分から遠ざける。(私の場合は、
テレビのニュースである。いつも殺伐とした怒りをかきたてられ、不愉快に
なる(注92)。)
 ちょっとでも焦りや不安を感じたら、それ以上の気合いを入れて自分を愛する。
 否定的な考え、焦り、不安などを一秒たりとも心の中に置かない強い決意を
し、それを実行する。

 ・・・以上のようなことを心がけ、肯定的な考え方や楽天的な考え方、リラックス
した気分や気軽な行動などを生活習慣にしてしまうのである。自己否定の人間
は、否定的な考え方や慎重すぎる行動が長年の生活習慣になっている。だから
それと同程度の自己肯定の訓練が必要であることを、素直に認めなければなら
ない。あなたはいったい何年の間、自己否定で自分を苦しめてきたのだろう? 
十年だろうか? 二十年だろうか? それだったら、自己肯定にも十年や二十年
くらいの歳月がかかって当然であろう。釈迦や孔子でさえ、本当に生命肯定の
境地に到達出来たのは七十歳代なのである。とにかく焦らずに、気長に気長に
取り組んでいくことが肝要である。あなたは今まで十分に自分を苦しめたのだか
ら、これからの人生を幸福に暮らす権利は十分にある。自分が幸福になるのに
後ろめたさを感じる必要は全くない。逆に、自己否定に取りつかれて自分が不幸
になっているそのこと自体が、周囲の人達をも不幸にしていることを思うべきで
ある。「いじめ」などは、その典型的な例である。自己愛を持った幸福な人間は、
いじめなど絶対にしない。いじめを好んでするのは、自己否定に取りつかれて
いる人間である(注93)

 自己肯定とは毎日の努力の積み重ねである。酒やドラッグは、一時的に苦悩
を誤魔化すだけで、根本的な解決には絶対にならない。真に自分を助けること
が出来るのは、酒や薬ではなく、毎日の自己肯定の努力の積み重ねしかない。
このことは肝に命じておくべきである。(誤解のないように断っておくと、鬱(うつ)
病ぎみで自殺しかねないような時には、緊急措置として治療のための薬は必要
だし、楽しみのために酒を飲むのはいっこうにかまわない。)


 自己肯定の努力とは、リラックス、安心、優しさ、やりがい、生きがいなどを常に
感じるように努力するということである。だから決して、辛くて苦しい努力などでは
ない。むしろ、楽しさと幸福が感じられる状態である。つまり、自己嫌悪の気分に
敏感になり、自己嫌悪を感じたらそのままにしておかず、すぐさま意識的に自己
嫌悪を心の外に追い出す。そして常に、楽しさとやりがいと生きがいで心の中を
満たしておくのである。「そんなに簡単に気楽な気分になれるものか!」と思われ
るかも知れないが、そのとおり全然簡単ではない。だから自己肯定は意識的に
努力する作業なのである。自己否定が理性による意識的な作業ならば、自己
肯定も理性による意識的な作業なのである。

 ところで、極度の疲労やストレスで精神的な危機に陥っている人、例えば過労
死寸前の会社員や、いじめにあって自殺寸前の中学生や高校生の人など、これ
らの人々は手遅れになる前に早急に緊急避難をしなければならない。会社や
学校へ通うのを一時的に中断し、まずゆっくりと休んで、精神疲労を取るべきで
ある。精神が疲れていては、理性が正常に働かないからである。さらに深刻な
事態の人は、一刻も早く精神治療やカウンセリングの専門家に診察してもらう
必要があるかも知れない。これは、家族や同僚などの周囲の人間が何と言おう
と、必ず実行しなければならない。なぜなら、自分を本当に助けることが出来る
のは、最終的には自分だけだからである。厳しい現実ではあるが、これが生命
の鉄則である。「自殺するほど悩んでいる人間を、どうして周りの者が気づいて
あげられないのか?」という疑問があるかも知れないが、普通は気づかないの
が当たり前なのである。それどころか、たとえ思い切って悩みを打ち明けたとし
ても、「大したことないから、もっとがんばれ!」程度で済まされる(注94)。なぜ
なら、人間は他人の心情を完全には理解できないし、他人の苦悩に巻き込まれ
たくないという防衛本能も働くからである。しかしこれは、通常の人間の特性とし
て当たり前のことである。もし自殺の可能性が前もって分かるならば、それと
分かっていて自殺を止めない人間などまずいないだろうから(注95)、自殺の
件数もずっと少なくなっているはずである。ともかくこのような深刻な事態の人は、
早急な非難によって心の余裕をとりもどし、一刻も早く、大愛や自分の絶対価値
を感じられる状態にならなければならない。人間は大愛によって生かされている
のであり、自ら死を選ばなければ結構生きられるものである。特に日本のような
先進国では、会社の一つや二つやめたり、学校を変えたり行かなかったりして
も、餓死する心配など全くない(注96)

 また、家に長いこと閉じこもって危険な状態になっている人の最良の緊急避難
は「運動」である。とにかく体を動かすのである。体を動かせば、なぜか心は楽に
なる。そして気分が良くなり、心が健康になっていく。やってみればすぐに分かる
が、これは本当である。運動している間は、くよくよ考えることがないので精神が
休まるためなのか、息が弾み、血行が良くなって、頭に新鮮な血液と酸素が行き
届くためなのか、私は医学の専門家ではないのでよく分からない。しかし適度な
運動は気分を良くし、食事も美味しくなる。もしかすると食事が美味しくなることが
重要なのかも知れない。食欲は生きる意欲の現われそのものだから。または、
体が疲れてよく眠れるようになるのが重要なのかも知れない(注97)

 運動を始めるなら、外でのジョギングがいちばん良いと思う。人の目が気になる
のならば、夜に暗くなってから行えば良い。しかし体のリズムを考えると、真夜中
とか寝る前とかは良くない。夕食前の午後6時から8時の間ぐらいが良いかと思う
(注98)。2キロぐらいから始めて最終的には10キロぐらい走れることを目指し、
毎日少しずつ(100メートル程度)距離を延ばすのである。この毎日の進歩を
実感することが非常に大切である。というのは、自分の進歩の実感が自己肯定
に結びつくからである。心理的に外に出られない人は室内運動でも良い。各自
が好みに工夫してとにかく体を動かすのである(注99)。そして運動量を毎日
少しずつ増加させ、その進歩を実感するのである。

 自己肯定は、自分の人生をかけた自己との戦いである。自己肯定が出来るか
否かで、自分の人生が生きたものになるか、死んだものになるのかが決まる。
だから生命の原動力を駆使し、出来得る限りの自己肯定の努力をしなければ
ならない。そしてそれは、全ての人間に課せられている生命の仕事である。とは
いうものの、人間にはどうしても気分のすぐれない時はあるもので、それをあまり
気にして力みすぎてもかえって良くない。そのような時はあまり気にしないで軽く
考え、リラックスした方が良い。リラックスするためには、静かな音楽を聞いたり、
座禅を組んだり、風呂に入ったり、軽い運動などをして気分転換をはかるのが
良いかと思う。人間は非常に高度で複雑な生命体であり、色々な外的条件や
内的条件の微妙なバランスのもとで正常な精神と身体が保たれている。各人が
まず、このことを謙虚に認め、精神と身体の自己管理(自己鍛錬も含む)を積極
的に行わなければならない(注100)

 ところで、「衣食住に困っているわけでもないのに、なぜ人間は人を殺したり
自殺したりするのか?」という問いに対し、「それは人間の本性の一面なので
仕方がない」という、まことに甘ったれた不愉快な見解がある(注101)。しか
し私は、これを人間の本性などとうそぶいて甘やかすのには賛成できない。
大生命によって人間は理性の所有を任せられたのだから、人間はこの高度な
理性を正しい方向に向け、理性の暴走を食い止める責任と義務がある。しかし
ながら、理性を正しい方向に向ける能力は自然に身に付くものではない。正し
い教育(受験教育などではない)と、長年の人生経験と努力の積み重ねにより、
後天的に獲得するものである。大人が子供から尊敬されるに値する理由は、
この一朝一夕では出来ない長年の努力を積み重ねているからである。しかし
この努力を怠り、理性を殺人や大量殺戮などの悪に使うような大人は、子供
以下の存在だ。いや、それよりさらに動物以下の存在である。なぜなら、絶大
な理性の力を悪に駆使する生物は大生命にとって非常に有害であり、それより
は、理性を持たない野生動物の方が、ずっと大生命の意志にかなっているから
である。各人がそれぞれ知恵を絞り、自己管理を良く行って精神や身体を正常
に保ち、常に理性を正しい方向に向けて自己肯定に努力しなければならない
ゆえんである。



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注89:
 この節で述べたことは、私自身の自己分析や、私自身の試行錯誤に基づい
たものです。なので、ここで述べた方法が、読者のみなさんにも有効であるか
どうかは、定かではありません。
 しかしながら、自己否定に苦しんでいる一人でも多くの人に、少しでも参考に
なればと願っています。


注90:
 「根源的な苦」が「生命の原動力」であるという考え方に、私は最近ますます
確信を持つようになりました。
 というのは、私も50歳代になって体力がずいぶん低下してきましたが、体力
が低下すると、「漠然とした不安や焦燥」を長く感じ続けることが、疲れて出来な
くなってきたからです。そして、「まあいいや、何とでもなるさ」という気持ちに直ぐ
なってしまうのです。
 また、「自己否定によって自分を責め続けること」や、「世間や周囲の人間に
対する怒りや憎しみ」なども、体力が消耗して長く続けることが出来なくなりま
した。そして、「まあ、どうでもいいや」という気持ちに直ぐなってしまいます。
 現在の私は、「体力が低下すると精神が安定する」ということを実感していま
す。そういえば若いときの私でも、冬山登山から無事に下山して体が疲れきっ
た時などは、「何とも言えない精神の安定」を感じていました。それと少し似た
ような感覚です。


注91:
 当然ですが、犯罪などの「悪いこと」はダメです。


注92:
 ところでテレビのニュースというのは、なんで食事時(どき)に、わざわざ飯(め
し)が不味(まず)くなるような、悲惨な事件や事故の報道をするのでしょう?
 子供の頃から大人になるまでずっと、悲惨な事件や事故のニュースを見なが
ら食事をするような生活を続けていて、はたして「まともな人格」が育つのかどう
か、私はものすごく疑問に感じています。
 なぜならインターネット世界には、不幸で悲惨なニュースを「メシウマ」などと
広言して憚(はばか)らない人間がけっこう居るからです。他人の不幸を知ること
で飯(めし)が美味(うま)くなるなんて、やはり私には、ものすごく異常な感覚に
思えてなりません。
 もちろん私は、周囲にテレビを見る人間がおらず、一人で食事をするような時
は、「メシマズ」になるのでテレビを必ず消します。食事の時にテレビが点(つ)
いていて、悲惨なニュースが目に入ってしまうと、私は食べ物の味さえ分からな
くなってしまうのです。


注93:
 もちろん、自己否定に陥っている人間のすべてが、「いじめ」を好んでする訳
ではありません。
 しかしながら、正しい自己愛を持った本当に幸福な人間は、わざわざ「いじめ」
などをして自分が不愉快な気分になることは好みませんし、そもそも「いじめ」を
する必要性がありません。
 「いじめ」をすることで愉快な気分になる人間、「いじめ」をしなければやって
いられない人間、どうしても「いじめ」をする必要がある人間というのは、
 (自己否定に陥っている人間とは限りませんが)とにかく「自分は不幸だ!」
と思っていたり、感じたりしている人間です。
 そのような「不幸」には、仕事や学業の重圧にストレスを感じていたりとか、
暇をもてあまして人生に退屈を感じていたりとか、人によって様々なものがある
でしょう。


注94:
 最近では「心のケア」という概念が社会的に浸透してきており、無神経に
「大したことないから、もっとがんばれ!」などと、前近代的な精神論を振り
かざす人間は、(多少なりとも居るでしょうが)減少してきたかも知れません。


注95:
 たしかに大部分の「普通の人」は、自殺しようとする人間を見れば、それ
を制止しようとするでしょう。
 しかし残念ながら世の中には、他人を故意的に自殺に追い込むような
「極悪非道な人間」が皆無ではなく、そんな人間がどうしても存在してしま
うのも事実です。


注96:
 日本では、まず餓死をする心配がなく、どちらかと言えば太ることを気にし
なければなりません。
 この事実は、追いつめられて自殺願望が起こったとき、冷静さを取り戻す
のにとても役に立ちます。私が精神的に追いつめられたときは、よくこのこと
を思い出して、冷静さを取り戻すようにしています。


注97:
 いまの私でも、運動不足になるとイライラして、精神的に落ちつかなくなり
ます。適度な運動は、ほんとうに精神を安定させる効果があると思います。


注98:
 治安の悪い土地では、真夜中などは事件に巻き込まれる可能性もあるの
で、この理由からも真夜中のジョギングは避けた方がよいと思います。


注99:
 50歳代になった現在の私は、体力がずいぶん落ちて、1日に30分ぐらい
の散歩をすれば、精神が安定するようになりました。今では、とても10キロの
ジョギングなどできません。
 それぞれ各自の体力や年齢によって、必要な運動量というのは違ってくる
ので、自分に合った運動(種類や量)をすればよいでしょう。


注100:
 たとえば「仕事が忙しい」などの理由で、まともな睡眠や食事、そして適度
な運動を怠れば、精神と身体の調子がおかしくなってしまいます。
 そうなれば、仕事そのものに支障をきたすどころか、自分の命をも危険に
さらしてしまいかねません(鬱病、過労死、過労自殺など)。
 そのことを謙虚に認めて、積極的に、精神と身体の自己管理に努めなけれ
ばならないのです。


注101:
 本書を執筆した当時は、このような「甘ったれた見解」に、ものすごく腹が
立っていました。
 しかしながら、いくら衣食住が十分であっても、殺人や自殺をする人間が
後を絶たないという事実は、どうしても否定できません。
 やはり、まっとうな人間が育つ社会にするためには、衣食住をさらに豊か
にする(つまり経済や科学技術をさらに発展させる)だけではダメで、
 「心の教育」というか「理性を正しく使ための教育」を、社会に広く普及させ
ることが絶対に必要なのだと思います。
 これまでの社会は、経済や科学の発展に狂奔(きょうほん)するあまり、
「よい心を育てる」というか「よい人間性を育てる」ということに対して、かな
り無関心だったように思います。
 今にして思うと、本書を執筆していた当時の私は、そのことに腹を立てて
いたのかも知れません。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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