生命の「肯定」 16
                              2016年2月28日 寺岡克哉


 前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第2部の第2章2節まで紹介しました。

 今回は、その続きです。


               * * * * *


2-3 人間の絶対価値 (注78)
 正しい自己愛を持つためには、自分が大生命に愛され、受け入れられている
実感が必要であった。しかし自己愛を持つためには、さらにもう一つ必要なもの
がある。それは「自分が何かの役に立っている」という実感である。つまり、人間
は社会的な動物であり、「自分は何の役にも立たない」と感じれば、すぐに自己
嫌悪や自己否定に陥ってしまうからである。正しい自己愛を持つためには、
「自分は価値ある存在だ」と感じることがどうしても必要である。

 ところで、「自分は価値ある存在だ」と感じさせてくれるものは、「生命の仕事」
である。生命の仕事とは、大生命の意志にかなった生命活動のことである。また
大生命の意志とは、大生命の維持、強化、高等化、永続への志向であった。
大生命の意志に貢献する活動であれば、その種類や内容を問わず全て生命
の仕事である。

 そしてこの生命の仕事を行えば、その人間の相対価値ではなく「絶対価値」を
得ることが出来る。不動の自己愛を持つためには、相対価値を追い求めること
をやめ、絶対価値を獲得しなければならない。そのためには、相対価値と絶対
価値の違いをよく知り、相対価値の幻影に惑わされないようにする必要がある。
この理由から、以下に相対価値と絶対価値について述べたい。

 相対価値とは、例えばスポーツ競技や大学受験などである。これらは決めら
れたルールに従いさえすれば誰にでも出来ることである。もちろん人によって
上手下手はあるけれども、特に身体や知能に重い障害がなければ、基本的に
は誰にでも実行可能なことである。だから相対価値は、その事柄が出来るか
否かに価値があるのではなく、競争に勝つことに価値がある。つまり相対価値
は、勝敗という他の人間との相対的な関係によって、価値が生じたり、価値を
失ったりする。例えば、スポーツ競技の「優勝」は典型的な相対価値であるが、
これは競争に負ければいつでも他の人間に取って代わられる。また、競争に
勝った者ならば、誰が取って代わっても、別に何の支障も起きない。なぜなら、
相対価値は「その人間である必要がない」からである。その人間である必要が
ないのは、相対価値がその人間の絶対的な価値でない証拠である。

 もう一つの絶対価値とは、ある一人の人間にしか出来ない事柄、つまり他の
人間には出来ない事柄を、その人間が成し遂げたことによって生じる価値であ
る。例えば独創的な芸術や思想、学術研究や発明、新事実の発見など、その
人間が存在したからこそ成し遂げられた成果であって、他の人間に取って代わ
ることの不可能な、その人間の絶対的な価値のことである。例えば、釈迦、
キリスト、アリストテレス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、シェークスピア、ベートーベン、
ダーウィン、ニュートン、アインシュタイン、ライト兄弟、等々。彼らの成し遂げた
仕事は、彼ら以外に成し遂げることは出来なかった。また彼らと全く同じ仕事を、
後の人間がいかに上手に模倣しても、そんな行為には全く意味がない。ゆえに
絶対価値は他の人間に取って代わることが不可能なのである。絶対価値は競争
に勝つことに価値があるのではなく、その事柄を成し遂げたことに価値がある。
逆に言えば、絶対価値は、その人間にしか出来ない仕事の価値だから、そもそ
も競争すること自体が不可能である。

 相対価値は、人間が競争やゲームを楽しむため、または欲望や快楽の追及
に意味を持たせるために作り出した幻影である。この相対価値の幻影は、競争
による勝敗の価値を無意味にすれば消滅する。なぜなら、相対価値には元々の
価値が存在していないからである。この方法を使えば相対価値の幻影を見破る
ことが出来る。例えば、大学受験で受験者全員を合格にすれば「合格」の意味
は失われる。スポーツ競技で参加者全員を優勝にしてしまえば、「優勝」の意味
はなくなる。宝石や貴金属を万人に等しく十分に与えると、それはもはや「貴重
品」とは言わない。このように、競争や奪い合いをしなければ価値のないもの
は、元々の価値がないのである。一方、衣食住や医療の充実、教育や文化の
普及などは、万人に行き渡ってもその価値を失わない。それどころか、万人に
行き渡ってこそ、ますますその価値が高まる。このように、絶対価値は競争や
奪い合いをしなくても、価値を失わない。それは、絶対価値が幻影などではな
く、元々の価値がちゃんと存在しているからである。

 誤解のないように断ると、大学受験の「合格」は相対価値だが、大学教育を
受けることは絶対価値である。また、スポーツ競技の「優勝」は相対価値だが、
スポーツそのものは文化であり、人的交流や心身の鍛錬であり、絶対価値で
ある。賞金や名誉などの相対価値の獲得のためにドーピングやトレーニングの
やりすぎなど、健康を害してまで勝つことにこだわるから、何か生命の摂理に
反する不自然で不純なものになるのである。

 また逆に、学術研究や芸術活動、平和運動などでも、富や名声の獲得をその
目的にすれば、やはりそれは相対価値である。例えば、ある画家が本当にすば
らしい絵を描いたとする。もしもその画家が絶対価値の画家ならば、その絵が
売れても売れなくても、あるいは作品展などで高い評価が得られなくても、その
絵は高い価値を持つ。しかし相対価値の画家にとっては、たとえその絵が本当
にすばらしいものであっても、高い値段で売れなければ、あるいは高い評価が
得られなければ、その絵には何の価値もないのである。このように、富や名声
を目的にすれば相対価値になってしまう。

 ところで、正しい自己愛を持つためには、相対価値は有害である。なぜなら、
相対価値は他者との闘争によってしか獲得できなからである。闘争には常に
苦悩や苦痛がつきまとい、そして勝つためには、エゴイズムをむき出しにしなけ
ればならない。それらが正しい自己愛を不可能にしてしまう。また相対価値を
一時的に獲得しても、いつかは闘争に負ける可能性が常に存在し、心配や不安
や焦燥が尽きない。そして、常に勝ち続けることは不可能だから、相対価値は
いつか必ず失われる。また、自分が勝者になれば必ず敗者を作り出すことに
なり、そのことを気にかける心優しい者は、自分が勝ってもかえって自己嫌悪を
招き、正しい自己愛を不可能にするどころか、自己否定に陥ってしまう。

 そして現在では、相対価値を極限まで追い求めると人類が破滅することが
証明されてしまった。というのは、弱肉強食という競争原理が相対価値の根底
であるが、人類はこの信念の下、軍事力の強化にいちばんの努力を費やして
きた。人類で最も優秀な頭脳達が、最も国力のある国に集まり、そしてついに、
核兵器を開発したのである。その結果だれも戦争の勝者がいなくなり、人類
絶滅の可能性を現実化させてしまった。人類はもうこれ以上強くなることに意味
はない。また、個人のレベルでも、弱肉強食の自由競争を無制限に認めれば、
無制限の殺し合いになってしまう。人間の知的、身体的能力の限りを尽くし、
手段を選ばずに考えられる限りの方法で競争を行えば当然そうなる。残念なが
ら、今のところ人類は、まだそういう動物である。だから人類は、法律や倫理、
道徳を作り、無制限の自由競争を抑制している。実際、自由に殺しても法律に
触れない野生動物などを、人類は何種類も絶滅に追いやっている。以上のよう
に、弱肉強食の競争原理を無制限に追及すれば、人類は必ず破滅してしまう。

 ところがもう一方の絶対価値は、他の人間に取って代わることが不可能なの
で、絶対価値を失う心配や不安は全くない。また、闘争による苦悩もないし、
エゴイズムをむき出しにする必要もない。(しかし、やるべき仕事をやり通すと
いう、頑固なまでの自己主張は存在する。私はこれを「正しい自己主張」と表現
し、単なるエゴイズムと区別してる。)そして絶対価値をいくら追及しても闘争が
起こり得ないので、敗者を作る心配も、人類が破滅する心配もない。

 ところで、この節のはじめの方で「生命の仕事を行うことにより絶対価値が
得られる」と述べたが、それは、あなたの行った生命の仕事は、あなただけが
成し遂げたものだからである。あなたの行った生命の仕事は、あなた以外の
人間には絶対に出来ないことである。と、いうのは、あなたの生きた時代、国、
仕事の種類、影響を受けた人間、または影響を与えた人間、等々、あなたと
全く同じ条件で全く同じ生命の仕事を、あなた以外の人間が行うことなど、到底
不可能だからである。また、全く同じように見える仕事であっても、それを行う
人間が異なれば、大生命に与える影響(生命の仕事の波及効果)も、必ず違っ
たものになる。そしてその違いは、時間が経過すればするほど大きくなっていく。
例えば、二人のお百姓さんが米を作ったとする。ここまでは全く同じような仕事
である。しかし、それぞれのお百姓さんの作った米を食べる人間は違って来る。
そして、その米を食べた人間の行う生命の仕事は、さらに違ったものになって
いく。また例えば、四〇〇万年前に木から降りたサルは、木の上に残ったサル
とほとんど変わりがなかった。しかし現在は人間とサルとの差になっている。
このように生命の仕事の波及効果は、はじめはごくわずかな違いであっても、
その後にどんどん違うものに発展していくのである。

 そしてあなたの行った生命の仕事の波及効果の行く末も、全て今のあなたの
存在にかかっている。あなたが今生きて存在していることの影響力は、今後
何億年も続いていき、この先どうなっていくのか計り知れない。その全てが、今
のあなたの存在にかかっている。だから、あなたの代わりが出来る人間など、
この世に一人も存在しない。あなたは、やりがいを感じて実行可能な生命の仕事
を見つけたら、それを一生懸命に行えば全く良いのである。その生命の仕事は、
あなただけが成し遂げたものであり、他の人間には絶対に出来ないことである。
このように、人間の絶対価値は生命の仕事を行うことによって得られる。生命の
仕事を行う者に、無意味な人間などは一人も存在しない。自分のこの絶対価値
を実感すれば、受験の失敗や会社の昇進などで一時的に相対価値を失っても、
自暴自棄にならずに、不動の自己愛を持つことが出来るのである。

 (ここでは自己愛との関連から議論を人間だけに限った。しかし、生命の仕事
は全ての生物が行っているから、絶対価値は全ての生物にも存在し、無意味な
生命などというものはあり得ない。ゆえに全ての生命は尊重されなければならな
いのである。)



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注78:
 私には、昔から(おそらく子供の頃から)大嫌いな言葉があります。

 それは、「おまえの代わりなど、いくらでも居る!」とか、「おまえは全くの
役立たずだ!」というものです。

 このような言葉を平気で発する人間を、私は絶対に好きになれませんし、
信用も信頼も絶対にしません。


 というのは、

 「おまえの代わりなど、いくらでも居る!」、「おまえは全くの役立たずだ!」

 これらの言葉は、人間を「取りかえが可能な使い捨ての道具」のように
捉(とら)えており、

 「一人ひとりの人間は、この世に一つしか存在しない、唯一無二の独自な
存在である」ということの価値を、真っ向から否定しているからです。


 それに対抗するために考えたのが、「人間の絶対価値」という概念でした。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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