生命の「肯定」 14
2016年2月14日 寺岡克哉
前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第2部第1章の最後まで紹介しました。
今回は、その続きです。
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第2章 自己愛
2-1 自己愛とは (注74)
生命肯定の第一歩は自己肯定、つまり自己愛から始まる。なぜなら、正しく
自分を愛することが出来てはじめて、家族や恋人、友人、隣人、人類、及び
他の生命を愛することが出来るからである。自己肯定の出来ていない人間が
いくら生命を肯定しようと躍起になっても無理である。それは、自己否定の人間
を見れば理解できる。
自己否定の心情をここでもう一度述べると、
・・・自分は、どうせ生きていても何も出来ないし、生きていてもつまらない。
自分には生きる価値もないし、また生きる資格もない。自分が生きていること
は、只々他人に迷惑をかけるだけで、たいへん申し訳なく思っている。自分でも
しっかりしなきゃと思っているが、どうしてもだめなのだ。自分は世間の厄介もの
だ。何の役にも立てない。生きることは辛くて辛くてしょうがない。このまま生きて
いるよりも、ひと思いに死んでしまった方がましだ。なぜならその方が世のため
だと思うし、自分も楽になるから・・・。
このように自己否定は、「自分の存在が無価値だ」と感じて劣等感を持つ。
その結果、自分を罪悪視し、自分を憎悪して、自己の存在(自己の生命)を
否定してしまう。
また、自己否定の人間は、自意識過剰な人間である場合も多い。自己否定
に取りつかれた人間は、常に自分が不幸な存在であると考えており、周囲にも
憎悪と不幸をまき散らさないと我慢できない質の人間である。自己否定の人間
は、自分を押し殺して芝居が出来るので、外見上は優しさ、賢明、従順、快活
等、およそ理想的な人間像を演出することが出来る。しかしその心の奥底は、
劣等感から生じる自分への憎悪や怒りと、自分に対して劣等感を抱かせる他人
への憎悪や怒りでいっぱいである。そしてそれを抱え込んで隠しているために、
苦悩やストレスも大きい。自己否定がさらに激しくなると、自分の幸福も、他人
の幸福も、あらゆる幸福を強く憎んでこれを破壊しようとする。普通は他人の
幸福の足を引っ張ったり、陰口で評判を落としたりする程度であるが、最悪の
場合は発作的に自暴自棄に陥り、暴行や殺人を犯したり、または自殺したり
する。これらの理由から、自己否定の人間が生命を肯定することは不可能で
ある。
生命の肯定を可能にする根本は、自己肯定である。つまり、全ての愛は自己
愛から始まる。まずはじめに自己愛を持つことが出来れば、生きる意義や目的、
または生きる喜びや生きがいなどが自然に湧き起って来る。そして、隣人や
他の生命をも愛せるようになっていくのである。
しかしながら厄介なことに、自己愛は非常に誤解されやすい概念である。
そして「間違った自己愛」と言えるものが多数存在している。この間違った自己
愛には、エゴイズム、自信過剰、自意識過剰、自惚れ、ナルシシズムなどが
挙げられる。そこで「正しい自己愛」を正確に把握するために、正しい自己愛と
間違った自己愛について、具体的に色々と挙げてみる。
はじめに、正しい自己愛について挙げる。
自己愛とは、自分を好きになり、自分を大切にし、自分を尊重することである。
自己愛とは、真の自分を正しく知り、自分を誤魔化さず、自分に嘘をつかない
ことである。
自己愛とは、自分の正しいと思ったことを曲げず、自分の良心に忠実に生きる
ことである。
自己愛とは、自分に合った正しい生き方をし、自分を出来る限り、良く生かし
きれるだけ生かしきることである。
自己愛とは、生命の仕事を良く行い、自然の摂理に忠実に生きることである。
自己愛とは、常に自己完成に向かって努力をし、自己を正しく成長させること
である。そしてその努力に喜びを見出し、人生に生きがいと幸福と感謝を感じる
ことである。
自己愛とは、殺人や犯罪などを行わず、自分を貶めないことである。
次に、正しい自己愛と間違った自己愛の違いについて挙げる。
自己愛とは、自分を尊敬することであるが、自意識過剰のことではない。
自己愛とは、自分の存在に喜びを感じることであるが、ナルシシズムのこと
ではない。また、自画自賛や自惚れのことではない。
自己愛とは、自分を信じることであるが、自信過剰のことではない。
自己愛とは、無軌道な欲望を自己抑制することであるが、卑屈になることでは
ない。
自己愛とは、私利私欲を満たすことではない。つまり自分の欲望のままに金や
快楽、または地位や権力を追及し獲得することではない。また、自分だけの幸福
を追及することでもない。
自己愛とは、自分だけが良ければ他の人間はどうなっても良いということでは
ない。また、自分を守るために他の生命を犠牲にすることではない。
自己愛とは、自分の立場を守るために周囲の意見に賛同することではない。
また、自分をかばうために他人の奴隷になり下がることではない。
自己愛とは、自分の評判を得る目的で善行を行うことではない。また、自分の
批判を避けるために善行を行うことではない。
正しい自己愛と、間違った自己愛(エゴイズム、自信過剰、自意識過剰、
自惚れ、ナルシシズム等)は、一般に混同されている。そんな状況であるけれ
ども、生命肯定の道を歩むためには正しい自己愛を把握しなければならない。
例えば、正しい自己愛は、周囲の人間との調和(迎合ではない)と幸福を
もたらすが、間違った自己愛は、周囲の人間との不調和や闘争、不幸をもた
らす。
また、エゴイズムは自分勝手な自己主張の塊であるが、しかし正しい自己愛
にも、強い自己主張が存在する。それは自己の完成、他人との調和、平和、
助け合いなどへの強い欲求や行動として現れる。だから正しい自己愛の人間
は、「正しい自己主張」の人間でもある。
また、例えば自分の評判を得るために善行を行った場合は、その真の目的
が知られれば「偽善」との非難を受ける。もしも偽善がばれない場合であって
も、偽善を続けていれば自己欺瞞(ぎまん)が起こり、それがやがて自己嫌悪
や自己否定に発展する。また、偽善は自分と周囲の人間に嘘をついている
から、自分も周囲の人間も、だんだん信用できなくなっていく。以上のように、
正しい自己愛と間違った自己愛は、よりいっそうの生命の肯定に近づくのか、
逆に生命の否定に近づいてしまうのかにより、見分けることが出来る。
ところで、間違った自己愛と正しい自己愛が混同されているために、「自己愛
は悪いものである」とか、「自己否定や罪の意識が大切である」などという間違っ
た考え方が生まれる。事実、大部分の人間はエゴイズム等の間違った自己愛に
陥りやすく、それが生命の肯定(愛の実践)を不可能にする。だから自己否定や
罪の意識が大切だとよく言われるのである。しかし私は、エゴイズムを抑制して
正しい自己愛を持つことが出来れば、自己否定や罪の意識は不要であり、生命
の肯定にとってはかえって有害であると考えている。なぜなら、自己を憎んでい
る人間、つまり自己否定の人間が、いくら隣人や生命を愛そうと躍起になっても、
何か不自然で無理があるからである。なぜならそれは、自己欺瞞だからである。
そして、この自己欺瞞を続ければ、さらに自己否定が強くなり、いよいよ生命の
肯定から遠ざかってしまうからである。
また、自分の命を犠牲にして他の命を救うことが最大の愛であるために、
「自己犠牲の精神が大切である」などとよく言われる。しかし、これも非常に誤解
されやすく、自己否定を招きかねない言葉だから注意が必要である。確かに
自己犠牲の愛は最大の愛である。しかし、これも正しい自己愛が完成されて
こそ、そう言えるのである。例えば、罪の意識や自己否定にさいなまれ、それが
原因の自己犠牲を装った自殺であれば、やはりそれは愛であるとは言えない。
なぜならそれは自分に対する憎悪のなせるわざであり、生命の肯定がなされて
いないからである。生命の肯定なくして愛はあり得ない。だからこの場合の自己
犠牲は、非常に厳しいことを言うけれども、自己欺瞞であり偽善でしかない。
自己愛は生命肯定の根本である。自己愛をなくしていかなる生命の肯定も
成し得ない。キリストは「隣人を自分のように愛しなさい」と言っているが、しかし
この言葉においても、正しい自己愛を持っていることが既に前提となっているの
である。
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注74:
この節で述べている、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」の区別は、
ほんとうに難しいことだと思います。
ともすれば、エゴイズムなどの間違った自己愛なのに、「これは正しい
自己愛だ」と、自分自身で「勘違い」をしてしまいがちです。
あるいは、エゴイズムなどの間違った自己愛なのに、「これは正しい
自己愛なのだ」と、自分勝手に「自己正当化」をしてしまう恐れもあります。
これらの「勘違い」や「自己正当化」は、いま現在の私でもやってしまい
がちです。
つまり、本当は自分の「自己顕示欲を満たすため」にやっているのに、
「これは世のため人のためにやっているのだ」と、勘違いをしたり、自己
正当化をしてしまうことが結構あるのです。
これを避けるためには、つねに反省と考察を繰りかえしながら、少しずつ
「正しい自己愛」に近づいて行くしか、ほかに方法が無いのではないかと
思っています。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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