生命の「肯定」 12
2016年1月31日 寺岡克哉
前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部第5章4節まで紹介しました。
今回は、その続きです。
* * * * *
5-5 生命の否定の解消
これまで述べてきた「生命の仕事」を行うことにより、生命の否定は解消する
ことが出来る。しかし、それを述べる前に、生命の否定の根拠であった「個の
生命観」をもう一度確認すると、
一、個の生命観では死ねば全てが無に帰してしまう。つまり、どんなに苦労して
生き抜いても、得られる結果は「死と無意味」である。このことにより、結局は
生きることの全てが無意味なのだと結論される。また、欲望や快楽の追及も
この結論からは逃れられない。
二、生きることは無意味であるが、さらには苦悩や苦痛も存在する。一方、死は
無意味であるが苦は存在しない。それなのになぜ、苦に耐えて生きなければ
ならないのか? また、たとえ欲望や快楽をいくら追及しても、それは苦しみを
増大させるだけにすぎない。
三、生命は生きるための苦しみを常に突きつけて生きることを強いておきながら、
なぜ最後に必ず死ななければならないのか?
この三つの問題にまとめられる。大生命の生命観は、これら三つの問題に
回答を与え、生命の否定を解消することが出来る。その回答は、断片的には
既に述べているのだが、以下にそれを整理してみる。
一つ目の問題は、死ねば全てが無に帰すので、生きることは全て無意味だと
いうものである。この「死ねば全てが無に帰す」というのが個の生命観の根本
である。しかし大生命の生命観は、この根本が違う。大生命の生命観では、
ある一人の人間が行なった「生命の仕事の波及効果」は、その人間が死んで
も消滅せずに、大生命の中で永遠に生き続ける。だから、個体の死によって
「生命の意義」を失うことはない。人間を含む全ての生物には、その個体が死ん
でもなお、永遠に生き続ける生命の意義(生命の仕事の波及効果)が存在する。
それは一見すると、どんなに目立たなくて小さなことかも知れない。しかしその
波及効果は、新たな波及効果を呼び起こし、それら全体の総和は、無限大で
ある。そしてまた、例えばキリストや釈迦、孔子などが行った生命の仕事の場合、
その当人が死んでもなお、数千年も彼らの人格は生き続けて、人々を教え導い
ている。これが真の宗教で言うところの「肉体の死によらない永遠の生命」なの
だろうと私は考えている。
ところで、「死ねば全てが無に帰す」という個の生命観は、「個の生命」に対して
は正しい認識である。だから多くの人間が個の生命観に陥り、生命の否定に取り
つかれる。しかし大生命の生命観も「生命全体」に対しては正しい認識である。
つまり両方とも、論理的には全く正しい生命観なのである。だからこの問題で
重要なのは、「個の生命観と、大生命の生命観のどちらが正しいのか?」では
なく、「どちらの生命観を選択するのが正しいのか?」である。これは陥りやすい
落とし穴なので、ここではっきり言いたい。生命の否定を解消して生きる意義を
得るためには、大生命の生命観を選択するのが正しいのはもちろんである。
二つ目の問題は、「なぜ苦悩や苦痛に耐えてまで、生きなければならないの
か?」というものである。個の生命観では生きることに意味がないのだから、
苦悩や苦痛を避けるために自殺するのが賢明である。ところが大生命の生命観
では、生きることに意味が存在する。苦悩や苦痛の存在にも意味があるし、苦に
耐えて生きなければならない理由も存在する。
それは、出来る限りの生命の仕事を、より良く行うためである。
大生命の生命観では、自分の生命は自分だけのものではなく、大生命の細胞
として、その一部をも担っている。だから各人は、大生命の維持や発展に何らか
の寄与をしなければならない。また、そうしなければ、どんな生物も大生命の中
で生きていくことは出来ない。なぜなら、生態系に組み込まれた生物とは、生命
進化によってそのように作られているからである。自分は、自分一人だけのため
に生きているのではない。自分は、生命全体のためにも生きているのである。
また逆に、生命全体によって自分も生かされているのである。生きることの本当
の意味は、大生命のシステムの一部を自ら担い、大生命の発展に貢献すること、
つまり生命の仕事を行うことにある。個の生命観は、この生きる本当の意味を
見失っているから、生命を否定してしまうのである。
そして、人間に苦悩や苦痛が存在するのも、より良く生命の仕事を行うためで
ある。生命の仕事をより良く行うためには、健康な身体と正常な精神を保ち、
理性を正しく行使しなければならない。そのためには、ある程度の苦悩や苦痛
は必要不可欠である。例えば、肉体の苦痛を少しも感じなければ怪我や病気を
治そうとせず、体を粗末に扱って、最悪の場合は死んでしまう。また、精神的な
ストレスや不眠などで苦痛を感じなければ、頭脳を休養させようとせずに精神を
破壊してしまう。そして、殺人や戦争、核兵器の使用や生態系の大規模な破壊
など、人間の理性を間違って行使しても苦悩を全く感じなければ、人類は絶滅
する。
人間が苦痛を感じるのは、怪我や病気または精神疲労や肉体疲労などで
生命の仕事が良く出来ない状態の時である。このような時は、怪我や病気を
治すことによって、またはゆっくりと休養を取ることによって、苦痛を解消すること
が出来る
そして人間が苦悩を感じるのは、大生命の意志に反している時なのである。
大生命の意志に反するとは、生命の仕事を行わないか、または大生命に害悪
を及ぼすことである。例えば、怪我や病気の時、身体の苦痛の他に苦悩も感じ
ることがあるのは、生命の仕事をしていないからである。なぜなら、身体障害や
不治の病を乗り越え、その人に出来得る最善の生命の仕事を行なっている人々
には、身体の苦痛はあっても、苦悩は存在しないからである。淫蕩(いんとう)
や美食に耽ったり、殺人などの残虐非道な行為をしたり、利己主義に狂奔して
大生命の意志に反すれば、人間は苦悩を感じるように出来ている。これらのこと
に、少しも苦悩を感じないように振る舞っている人間を見ることもあるが、心の
奥底では苦悩を感じているに違いないと思う。
しかしながら、人類の歴史の中には大量殺戮などの残虐行為に少しも苦悩を
感じず、それどころかむしろ、正義感などを感じる人間が存在する。が、それは、
理性が間違った方向に働いているからであり、そのような人間は、常に少数派
の異常な人間であると言える。なぜなら、そのような人間が正常で多数派ならば、
人類はお互いに殺し合ってとっくに絶滅しているからである。このような人間は、
精神は正常でも理性が狂っているのである。大生命の意志に背く生命体は、
大生命の中に入り込んだ病原菌のようなものである。そして、そのような病原菌
の生命体は、大生命の治癒作用によって攻撃を受ける。例えば生態系を大きく
壊した生物は、その変化した生態系によって制裁を受ける。そして理性の狂った
大量殺戮の人間は、人類から制裁を受ける。
大生命の意志に背く生物は、一時的に猛威を振るうが長続きは出来ない。
なぜなら、全ての生物は大生命の一部であり、大生命のシステムに逆らって
生きることは出来ないからである。大生命の生命維持システムに逆らえば逆らう
ほど、周りの生物や自然環境との摩擦が大きくなり、生命の維持が不可能に
なっていく。例えば、生物の大量発生がその典型である。大量発生した生物に
対しては、生態系のバランスの保持作用が強力に働いて、大量に死んでしまう。
そして人類の例で言えば、例えば大量殺戮の人間(ヒットラー等)は、殺戮を
行なえば行うほど周囲からの憎しみ、非難、非協力、暗殺、武力攻撃が大きく
なる。そしてついには世界中の人間を敵に回し、暗殺が計画されて、側近の
者も信用出来なくなり、生命の維持が不可能になる。このように大生命の意志
に背く生物は、生命を維持することが出来ずに淘汰されてしまう。だから、現在
生き残っている生物は、大生命の意志にかなうもの、つまり、生命の仕事が
出来ると喜ぶものか、あるいは生命の仕事が出来ないと苦悩するものなので
ある。身近な例では、失恋したり、仕事や受験に失敗したり、家族や仲間が
死んだりした場合に見舞われる、大きな苦悩が挙げられる。しかしこれらはみな、
生命の仕事がうまく出来ないために生じているのである。
残念ながら、人間から苦悩や苦痛を完全になくすことは出来ない。しかし、
心身が健康で理性が正常に働き、生命の仕事が良く出来ている時には、人間
は苦痛を忘れて、生きがいと幸福を確かに感じることが出来る。この事実をあまり
にも軽視するから、一時の欲望や快楽に狂奔して生命の仕事から遠ざかり、
苦悩や苦痛を増大させてしまう。たとえ欲望や快楽をいくら追い求めてみても、
それらを十分に得られないと渇望して苦しみ、運良く得られても、その途端に
空しさや焦燥感、または新しく生じた渇望に苦しむ。つまり苦のない状態は、ほん
の一時しかない。しかし生命の仕事の場合は、仕事が達成されるまでの努力の
過程こそ、生きがいと幸福である。そして事実、人間はそう感じる。なぜなら、
それが既に大生命の意志に貢献している状態だからである。そして生命の仕事
は、達成された時に充実感や幸福感はあるが、空しさは感じない。また、生命
の仕事はあらゆる所に無数に存在するから、一つの仕事が終わっても、すぐ次
の仕事に取りかかることが出来る。つまり、生命の仕事は、苦のない状態を維持
することが可能である。心身を健康にして、良く生命の仕事を行っていれば、
疲労などの多少の苦痛はあるかも知れないが、苦悩からは永遠に解放される。
そして、生きがいと幸福を常に感じることが出来るのである。
三つ目の問題である生物個体の死も、生命の仕事なのだ。第5章4節で述べ
たように、生命の進化や多様化のためには個体の死による世代交代が必要
不可欠である。大生命は「個体の死」という戦略を取ることにより、生命全体と
しての永続と無限の発展を可能にした。もしも個体の死がなかったならば、生命
の進化も多様化も不可能であり、生命は地球環境の変化に適応出来ずに消滅
したであろう。また、人類のような高等生物の出現も不可能であった。個の生命
観では個体の死は完全な無意味であったが、大生命の生命観では、個体の死
も重要な意味を持っている。ゆえに、個体の死も大切な生命の仕事である。
しかし、生きている間は生きられるだけ生き、出来得る限りの生命の仕事を行っ
てから死に赴くのが、大生命の意志である。また、それが大生命に対する、
生物個体の任務であり、使命である。
以上により、生命の否定の原因になっている三つの問題に回答が与えられた。
結論は、「生命の仕事を行えば、生命の否定は解消する」である。より良く生命
の仕事を行うために苦悩や苦痛が存在し、生命の仕事が人間に生きる意義を
与え、生きがいと幸福をもたらす。そして、個体の死でさえも、生命の仕事なの
である。人間は可能な限り良く生きられるだけ生き、最善で出来得る限りの生命
の仕事を行なうことにより、最大の幸福を感じる。なぜなら、大生命によって人間
がそう作られているからである。言葉を替えて言えば、四〇億年の生命進化に
より、地球の生態系に組み込まれた生物として、人間がそう作られているからで
ある。
* * * * *
以上で、
拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部の最後まで紹介が終わりました。
いま読み返してみると、何だか、すいぶん偉そうな物の言い方で、
ちょっと恥ずかしくなってしまいます。
しかしながら、「生命の仕事を行えば、生命の否定は解消する」という
第1部の結論は、今でも私は正しいと思っています。
ちなみに私は現在でも、何となく「不安」や「焦り」を感じたときに、
「自分の生命の仕事が正しく行なえたか」と、反省するようにしています。
そうすると不思議なことに、「心の安定」や「落ち着き」を取りもどすこと
ができるのです。
それは恐らく、「いまの自分に出来ることと、出来ないこと」が、再確認
されるからだと思っています。
つまり私の場合は、たとえば「自分の言論が社会的に認められ、それに
よって社会を良くしたい」などというような、
「自分に出来もしない、大それたことを望んだとき」に、不安や焦りを
感じてしまうことが多いのです。
そんなとき、「自分の生命の仕事が正しく行なえたか」と反省することに
よって、
「いまの自分に出来ることを、焦らずに、しっかりと着実にやって行けば、
それで良い」
と、思い直すことができて、心の落ち着きが取りもどせるのです。
さて次回から、第2部の紹介に入りますが、
第2部では、「生命の否定の解消」から、さらに進んで、
積極的に「生命の肯定」を、行っていきたいと思います。
目次へ トップページへ