生命の「肯定」 9
2016年1月10日 寺岡克哉
前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部第4章5節まで紹介しました。
今回は、その続きです。
* * * * *
4-6 大生命の成長
大生命は一個の簡単な生命体として生まれ、それが繁殖し、多様化し、高等
化した。やがて複雑な生態系を形成し、地球環境すらも変えて来た。これらは
みな、大生命の成長の過程である。つまり「生命」というものが、より強靭で安定
したものに成長して来た過程である。以下、大生命の成長過程について大まか
に述べてみたい。
大生命は、ごく初期の段階で、まず植物(光合成を行なうバクテリア)を生み
出した(注66)。植物は食物連鎖の始まりであり、太陽エネルギーによって生命
の維持と繁殖が可能である。植物だけが他の生物を食べることなしに独立して
生きられる。この、植物が食物連鎖の始まりになることで、他の全ての生命が
支えられている。
大生命はまた、長い時間をかけて、地球環境そのものを改造してきた。原始
の地球には酸素がほとんどなく、とても動物の住める環境ではなかった。植物
は、その当時大量にあった二酸化炭素を酸素に変えることが出来た。現在の
地球が酸素で満たされているのは、植物が長い時間をかけて酸素を作ったから
である。このように、大生命が地球上を植物で満たしたので、動物が生きるのに
必要な食糧と酸素の条件がそろった。大生命は地球環境をそのようにしてから、
動物を生み出した(注67)。はじめに草食動物、次いで肉食動物が誕生した。
植物も動物も、はじめはプランクトンなどの簡単な生物から、しだいに複雑で高等
なものへと進化していった。動物の場合は、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、
哺乳類を経て人類に至っている。そして現在、大生命は、人類を含む三〇〇〇
万種(注62)ほどの多様で強力な生態系に成長した。
ところで、もしも大生命の意志が、生命の維持と永続だけだとするならば、生命
の進化は細菌類まで進めば十分であったろう。細菌類は苛酷な自然環境でも
耐え、繁殖力も旺盛であり、生命体として彼らの方が人間より強靭である。そして
事実、細菌類は三五億年間も生き続けている。やはり大生命は、生命をよりいっ
そう高等なものにしようとする意志(自然淘汰も含めた、生命を高等化しようとする
作用)を持っているとしか考えられない。そう考える以外に、人間の生まれた理由
に説明がつかないのである。
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注66:
たとえば、「光合成を行なう植物は、進化の過程で発生したものであり、べつ
に何者かが生み出した訳ではない」という見解を持つ人には、
「大生命が(植物を)生み出した」という表現に、違和感を感じるかも知れま
せん。
しかしながら4章5節で述べているように、進化の過程で重要な「自然淘汰」
は、生態系全体のバランスの中で行われるものであるから、「大生命そのもの
が、進化を促している」という見解も可能です。
この見解を取るならば、「大生命が(植物を)生み出した」という表現に対し
ても、違和感が無くなると思います。
注67:
「大生命が(動物を)生み出した」という表現も、上記の注66と同じ理由に
よります。
注62:
4章3節の注62で述べたように、近年の研究では、最大で1億種に上ると
いう推定もあります。
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4-7 大生命は不死である
前述のように、生命の進化は大生命の成長である。大生命は成長しながら
四〇億年も生き続けて来た。そしてこの先、まだ死ぬ気配はない。つまり大生命
は、不死の生命体だと言える。
また、たとえ人類が絶滅しても、それで大生命が死んだことにはならない。
というのは、人類の絶滅が生命の消滅を意味しないからである。例えば進化の
歴史では、恐竜の絶滅後に人類という高等生物が誕生している。しかし、逆に
もし恐竜が絶滅しなければ、人類は誕生できなかったかも知れない。これと同様
に、もし人類が絶滅しても、恐竜と人類ほどの差を持つ、さらに優れた高等生物
が誕生することは、十分に考えられる。なぜなら生命進化の歴史を見ると、大生
命は恐竜だけでなく十数回もの大規模な絶滅(そのうち五回はビッグファイブと
言われる大絶滅)を経験しているが、それでも大生命は生き残って発展を続け
て来たからである。また、種にも寿命があるためなのか知らないが、進化の歴史
では、種が滅ぶのはごく普通の出来事であり、過去に出現した生物種の九九
パーセントが絶滅したとさえ言われている。それでも大生命は、種の絶滅を契機
に新しい種を生み出し、さらなる生命の高等化と発展を成し遂げて来た。だか
ら、地球の全生物が消滅しない限り、人類の絶滅だけでは大生命が死ぬことは
ない。
大生命が死ぬ可能性をあえて考えれば、それは太陽の寿命が尽きる時であろ
う。太陽は燃え尽きる前に、現在の何百倍もの大きさに膨張して、赤色巨星と
いうものになる。赤色巨星の大きさは、半径が現在の太陽と地球の距離と同じ
ぐらいになると予想されている。だからこの時、その高温のために、地球はドロ
ドロに溶けて溶岩の塊になり、さらには気体になって、蒸発してしまうだろうと
考えられている。しかし、それはまだ五〇億年も先の話である。だからそれまで
に、生物が高等進化し、太陽系外に進出している可能性は、十分に考えられ
る。なぜなら、惑星探査宇宙船のパイオニアやボイジャーなどの人工物ならば、
既に太陽系外に飛び出しているからである。また、ナメクジのような生物から
人類までの進化に要した時間はたった六億年である。だからあと五〇億年と
いうのは、人類よりもさらなる高等生物が出現し、生命が宇宙に進出するのに
十分な時間が残されていると考えて良い。
4-8 大生命は神ではない (注68)
ところで「大生命とは即ち神である」などと誤解しないでほしい。大生命は、
地球の全生物及びそれらの諸関係の総体として定義したものであり、地球の
生態系として「実在」するものである。一方、神は観念上の「実在しない」もの
である。だから大生命と神とは、根本的に全く異なるものである。
神の場合、それを信じない者にとっては、神の存在を認識することは不可能
である。それは、神が客観的に実在していないからである。つまり、神は見る
ことも触ることも出来ないからである。神は、信仰することによってのみ、その
存在が認識できる。
しかし大生命は、それを信じようが信じまいが、客観的に実在する。大生命
は、地球の生態系を観察すれば、見ることができる。生物に触ることは大生命
に触れることである。そして、そもそも我々自身も、大生命の一部である。大気
中に酸素があって呼吸が出来るのも大生命の働きだし、我々の毎日の食事も
大生命が提供している。大生命の働きがなければ酸素も食糧も存在せず、我々
は一瞬たりとも生きることが出来ない。と、いうよりは、大生命がなければ、我々
自身も存在しない。我々も大生命の一部だからである。大生命は、我々が生き
て存在する生命の営みそのものなのである。
大生命の生命観は宗教ではない。大生命とは「実在する生命」のことであり、
決して「神」などではない。だから大生命に対して祈る必要はないし、祈っても
意味はない。そして大生命が願いをかなえてくれたり、奇跡を起こしたり、病気
を治してくれたり、死者を蘇らせたりすることはありえない。しかし、大生命には
感謝するべきである。大生命の働きは神の働きなどではなく、「我々生物が自発
的に行っている」働きである。全生物のエネルギー源として太陽エネルギーを
使っているのも、神が光を与えて下さったからではなく、太陽がたまたま存在し
ていたので、生物が太陽光をエネルギー源として選択したのである。実際、
嫌気性バクテリアなどの原始の生命体は太陽光をエネルギー源としていない。
その後の生物が太陽光を活用できるように進化したのである。以上のような
「生物の働き」という意味では、人類がより良く生きるために考え出された神の
概念も、人間の脳という「生物の働き」によって作られたものであるから、大生命
の働きの一部に内包されていると言えよう。
また、宇宙意識の存在だとか、宇宙が一つの生命体だとか、宇宙と自分は
一体だとかという考え方がある。これらは一見すると、大生命の生命観をさらに
拡張した高次元の生命概念のように思える。しかし宇宙空間(宇宙は、そのほと
んどが宇宙空間で占められる)は生命の存在を否定している。宇宙空間には
酸素がなく、真空であり、水もない。また生物に有害な紫外線や宇宙放射線も
飛びかっている。だから宇宙空間では、生物は一瞬たりとも生きることが出来な
い。このように、生物の存在しない宇宙空間に、生命の概念を適用することは
ナンセンスである。なぜなら、生命とは生物及び生命活動を表わす概念だから
である。大生命の生命概念は、あくまでも生物の存在とその働きに限定して
いる。だからこそ、大生命は単なる空想物語ではなく、客観性と実在性が保証
されている。しかし、宇宙意識などの概念も、人間の脳という「生物の働き」の
産物であるとするならば、神の概念と同じく、大生命の働きの一部に内包され
る。
本書が新宗教やカルトなどに誤解されるのを防ぐため、あえてこの一節を設け
た次第である。
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注68:
本書は、「宗教を信仰していない人」を対象にして書いたものです。
なので「宗教を信仰している人」には、特にこの節の内容にたいして、大き
な不満や疑問を感じるかも知れません。
しかし本書の目的は、「宗教を否定すること」ではなく、「宗教を使わずに、
生命を肯定すること」なのです。
各所で述べていますが、そもそも私自身は、宗教の存在を否定する者では
ありません。
が、しかし、戦争やテロを遂行するために宗教を使うことには、断固として
反対する立場をとっています。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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