生命の「肯定」 6
                             2015年12月20日 寺岡克哉


 前回では、拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部第3章3節まで紹介しました。

 今回は、その続きをやりますが、

 現在の私が今いちど本書を読み返してみると、いろいろ「思うこと」や
「補足したいこと」などが出てきて、それを注釈で書いていると、本の紹介が
なかなか前に進みません。

 しかしながら、ただ本の内容をコピーするだけでは、新たな進展がまったく
無いので、じっくりと考えながらやって行きたいと思います。


               * * * * *


3-4 個の生命観
 前節で述べたように、生命の否定の蔓延は人類の衰退を意味する。だから、
手遅れになる前に、生命の否定を解消して、積極的に生命を肯定する方法論
を見つけ出さねばならない。これは、人類の直面している閉塞(注45)を打開
し、さらなる人類の発展を可能にする(注46)ための、重要課題である。

 生命の否定を助長する要因は、物質文明の歪みによる不安やストレスなど
色々とある。しかし、生命の否定が起こる直接の原因は、「理性が生命を否定
する」ことにある。だからこの解決策は、理性によって「生命を肯定する」ことで
ある。そのためには、理性が生命を否定する根拠を明確にし、そこを改善すれ
ば良い。

 理性が生命を否定する根拠は「個の生命観」である。個の生命観は、その
個体の生存している状態だけにしか生命の意義が存在しない。つまり「死ねば
全てが無に帰す」という生命観である。個の生命観では、財産、地位、名誉、
名声、権力、恋人、家族、友人、知識、経験、業績、善行、犯罪、満足、愛情、
憎悪、未練、苦悩、苦痛など、自分が生きたことの全てが、さらには自分以外
の他の全ての生命までも、自分が死ねば、自分にとっては完全に無意味となっ
てしまう。つまり、個の生命観では、死後の状態は最初から生まれて来なかった
状態と、完全に同じなのである。だから、個の生命観は、苦悩や苦痛に耐えて
生きなければならない理由を喪失してしまう。個の生命観では、たとえどんなに
一生懸命に生きても、結局「無意味」だからである。

 ところで「生きている間に欲望と快楽を出来る限り満足させ、そして死ねば
それでいい!」という人がいるかも知れない。なぜなら、個の生命観において
唯一これだけが生きる拠り所であり、大部分の人間がこれに頼って生きている
からである。しかしこれさえも、結局死ねば無意味になるのは変わらない。しか
もそれだけでなく、欲望や快楽の追及はかえって「生きている間」の苦悩や苦痛
をさらに増加させるだけである。その理由は第2章で述べているが、しかしこれ
は重要なことなので、ここでもう一度その要点を確認したい。

 まず、快楽の追及が苦痛になる理由。それは、根源的な苦によって生じる
欲望は無限であるが、食欲や性欲などの快楽には、生物としての限界が存在
するからである。だから、快楽を欲望のままに追求すると、この限界を超えた
時点で、快楽が苦痛に逆転する。たとえ一番強い食欲でさえ、限度を超えると
苦痛に逆転してしまう。(飢え、寒さ、疲労などに比べれば、性欲などはほとんど
無視されるほどに弱い。これは冬山遭難などの極限状態を考えてみれば分か
(注47)。)しかし、快楽をこの限界まで追求してみても、根源的な苦によって
生じる無限の欲望は満たされない。それどころか、ますますやりきれないほどに
苦しみだす。なぜなら、「快楽の追及による根源的な苦の解消が不可能である」
ということを証明してしまい、人生を誤魔化すことが出来なくなるからである
(注48)。だから快楽の徹底的な追及は、快楽を苦痛に変え、さらには根源的
な苦の解消が不可能であることも証明してしまう。そして、人生において為す術
を失い、苦しみは耐え難いほど強くなる。

 一方、金や貴金属、装飾品、地位、権力などへの欲望の追及も、これらは
獲得できなければ渇望して苦しみ、また、運良く獲得できても、その途端に新し
く生じた渇望に苦しむ。しかも、この渇望の苦しみは、金や地位などを獲得すれ
ばするほど強くなっていく。これも根源的な苦によって生じる無限の欲望が原因
である。しかし、金や地位は「有限」であるから、無限の欲望を満たすことは
原理的に不可能である。つまり、金や地位などへの徹底的な欲望の追及も、
根源的な苦の解消が不可能であるのを証明してしまう。そしてそのことが、苦し
みをさらに耐え難いものにする。また、金や地位を失う不安や恐怖も、金や地位
を獲得すればするほど、増大する一方である。さらには、快楽や欲望の追及に
は、他者との闘争が常につきまとい、これによる苦悩や苦痛も、闘争の激化に
伴なって留まるところを知らない。

 以上により、快楽や欲望の追及は生命の存在意義にならないどころか、逆に
快楽を苦痛に変え、渇望の苦しみを増やし、財産や地位を失う不安を増大させ、
根源的な苦を耐え難いほど強くし、闘争を激化させるだけである(注49)

 「欲望や快楽の追及で生きがいが持てる!」と、それでも主張する人間は、
金や地位、快楽などへの欲望の苦しみを「これが生きがいなのだ!」と、自分に
無理に言い聞かせ、自分の人生を誤魔化し続けている人間である(注50)
その証拠に、いわゆる「野心家」に多いこのタイプの人間は、いつもイライラして
いて周りの人間を怒鳴り散らす(注51)。また、ビタミン剤や精神安定剤、強心
剤などを常用しており、心臓疾患も多い。これは、本人が非常に苦しんでいる
ことの明確な証拠である。そして「生きる本当の意味について」などという話題を
目の敵にする(注52)。これは、自分の人生が誤魔化しでしかないことを認める
のが、非常に恐ろしいからである(注53)。これでは全てお手上げである。個の
生命観では、生きることの全てが苦しみと無意味であり、生きる意義を完全に
喪失する。

 ところで、個の生命観をさらに極限まで突き詰めれば、「自分の生命だけが
全存在である」とか、「自分だけが全てだ」となるから、個の生命観はエゴイズム
の塊そのものでもある。個の生命観によって生命の否定に取りつかれた人間の
心情は、次のようなものであろう。

 「どうせ死んでしまえば、生まれなかったのと全く同じなのだから、最初から
生まれない方がずっと良かった。その方が、苦悩や苦痛を感じないで済んだ
からである。しかし生まれてしまったので、仕方がなく生きているが、なるべく
早く、楽な方法で自殺した方がよほどましだといつも思っている(注54)。また、
自分が死ぬ時は、全世界の人間を道連れにしても、死んだ自分にとっては全く
同じことである。そして全ての人間は、いずれ必ず死ぬのだから、殺されて死ぬ
のも死んでしまえば全く同じであり、殺人も別段悪いこととも思えない。かえって
他人の苦しみをなくして救ってあげるようなものだ(注55)。」

 以上のように、個の生命観が原因で起こる生命の否定は「自分の存在が全て
だ」と考え、その「全存在である自分」を否定しているのだから、他人の生命をも
当然のように否定する。全存在である自分の命でさえ死んだ方がましだと思っ
ているから、いわんや他人をやである(注56)

 個の生命観によって生命の否定に取りつかれた人間は、生きる意義を失って
人生に苦悩と苦痛しか感じられなくなり、世の中の全てを呪い、絶望して自殺す
る。または、生きる意欲を極限まで減少させることによって、苦しみから逃れよう
とする。というのは、苦しみは「生きるために何かをしようとすること」から生じる
からである。この場合は、非常に無気力な状態に陥り、何もする気が起きなくな
る。食事や会話、ひどい場合には呼吸をするのさえ面倒になる(注57)

 さらに一部の過激な人間は、自分が生まれて来たことを逆恨みし、世間に
復讐するために、犯罪や殺人を犯すかも知れない。こうなると、周囲の人間に
とっても非常に危険であり、本人だけの問題では済まされなくなる(注58)
例えば、昔から王侯貴族にたびたび現われていた、虐殺を好む「暴君」なども、
この類の人間なのだろうと思う。



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注45:
 全ての人類が、先進国なみの「物質的な豊かさ」を達成させるのは、絶対
に不可能です。
 なぜなら地球の資源が枯渇し、地球環境を徹底的に破壊してしまうから
です。
 たとえば全ての人類が、アメリカ人なみの生活をすれば、地球がおよそ5個
必要だと言われています。
 「人類の直面している閉塞」とは結局、「物質的な豊かさの追求」が原因に
なっているのです。

注46:
 なので、「物質的な豊かさの追及」という方向では、「さらなる人類の発展」
は望めません。
 ところで人間は、つねに「発展」を求めるものであり、発展が頭打ちになると、
いきいきと生きられなくなります。つまり鬱々(うつうつ)として「生命の否定」が
起こってきます。
 だから、生命の否定を解消して、積極的に生命を肯定するためには、「さら
なる人類の発展」を可能にしなければならず、さらにそのためには、「物質的
な豊かさの追及」から「精神的な豊かさの追求」へと、発展の方向をシフトさせ
る必要があります。「精神的な豊かさの追求」ならば、資源の枯渇も、環境の
破壊も招かないからです。
 本書の全体的な方向性は、大体そのようになっています。

注47:
 とくに若い人の中には、「食欲よりも性欲の方が強い」と思っている方がいる
かも知れません。
 しかし私は若い頃に、冬山登山をした経験がありますが、遭難するような
極限状態でなくても、冬山の寒さと疲労の中では、性欲を感じたことが全く
ありませんでした。そのとき、「性欲というのは、思ったより弱いものだ」と実感
した次第です。

注48:
 肉体的な快楽を満たした直後に、「何か訳の分からない、やりきれない
空しさや焦燥」を感じてしまうのは、このような理由ではないかと私は考えて
います。

注49:
 私は、高い地位についたことも、莫大な財産を持ったこともないので、この
ように述べると「負け組の僻(ひが)み根性」と受け取られるかも知れません。
 しかしながら古来より、小欲知足(しょうよくちそく:欲少なくして足るを知る)
という仏教の教えもあるぐらいです。
 なので、やはり、「快楽や欲望を過度に追及すればするほど、苦しみがどん
どん増大する」というのは、古今東西を問わない「普遍的な真実」なのだと思い
ます。

注50:
 「自分に無理に言い聞かせている」というより、
 「欲望や快楽の追及で生きがいが持てる!」と、何の疑問も抱かずに自信
を持って主張する人間は、
 おそらく、「自分の人生を誤魔化し続けていること」を絶対に認めないし、
「自分の人生を誤魔化し続けている」という自覚さえも全くないでしょう。

注51:
 企業の管理職などには、このような人間が、けっこう多いのではないでしょ
うか。

注52:
 このようなタイプの人間は、「いくら財産を増やしても、死んだら ”あの世”
へは絶対に持っていけない」という話も、ものすごく嫌いなはずです。

注53:
 「非常に恐ろしいから」と言うよりは、「非常に辛いから」と言う方が、現在の
私には適切な表現のように感じます。

注54:
 この部分も、自殺を助長しかねない文章ですが、それは決して私の本意
ではありません。

注55:
 この部分は、秋葉原通り魔事件のような「訳の分からない殺人」を助長し
かねない文章なので、今になってみると、ものすごく心配です。

注56:
 「死刑になりたかったので、誰でもいいから人を殺した」という事件が少な
からず起こっていますが、ここで述べている「個の生命観による生命の否定」
も、その原因の1つになっているのではないでしょうか。

注57:
 私は以前、「生命の否定」に取りつかれていたとき、呼吸をするのも面倒に
なったことがありました。
 おそらく、重度の「ひきこもり」で非常に無気力な状態になった人も、これと
同じような心境ではないかと推察します。

注58:
 とつぜんに「訳の分からない殺人」をやってしまう人間や、
 社会的に置かれた自分の現状に、悲観あるいは憤慨して、「テロ行為」に
走ってしまう人間など、
 このような人間の全部ではないにしても、その一部は、ここで述べたことに
該当するのではないかと思います。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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