生命の「肯定」 5
2015年12月13日 寺岡克哉
前回では、拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部第3章2節まで紹介しました。
今回は、その続きです。
* * * * *
3-3 生命否定の蔓延は人類衰退の兆候である(注34)
第2章2節で述べたように、物質文明は「人の心」というものをないがしろにし
て発展してきた。だから現代社会は、生命の否定が起こりやすい環境になって
いる。その一方で、物質文明の世界的な波及は現在も留まるところを知らない
し、誰にも止めることは出来ない。だから、物質文明の波及により、生命の否定
も世界的に蔓延する可能性がある。もし、そんな事態になれば、それは人類の
存続にとって深刻な問題となる。現在はまだ生命の否定の蔓延が拡大してい
ないので、大げさな話に聞こえるかもしれない。しかし「問題の性質」は深刻で
ある。なぜなら、生命の否定の蔓延は、人類の発展が限界に達し、種としての
衰退に向かう兆候だからである。蔓延の拡大が顕著になった時は、もはや手
遅れである。以下、そのことについて述べてみたい。
前節で述べたように、生命の否定が起こるのは理性の働きである。理性は
地球の生物で人間だけが持っている。人間が他の動物に比べて高等だと言え
るのは、高度な思考能力である理性を持つからである。動物は本能のみで生き
ているが、人間だけは本能よりもさらに高次機能の理性によって生きている。
人間の理性は、長い時間をかけた生命進化で獲得されたものである。生命が
理性を獲得するまでに、実に40億年もの時間を費やした。そして人類は、理性
の力を駆使し、他の動物には及びもつかない大発展をとげて、高度な活動を
行なっている。宇宙空間に飛び出すことの出来た最初の生命は人類であり、
これも全て、理性の力によるものである。しかし、人間は理性を持つが故に、
生命の否定に苦しむことになった。生命の否定が起こるのは、進化で獲得した
高度な知的能力が原因となっている。そして生命進化の視点から見ると、人間
の理性が生命を否定する現象は、人類衰退の兆候であることが分かる。それ
は、生命進化における種の絶滅の過程を見れば理解してもらえると思う。
過去に起こった種の絶滅の経緯を見ると、種が絶滅する前には、必ず大発展
した時期があり、その直後から、急に絶滅が始まる。このように、大発展した
種が急に滅ぶのは、それまで種の発展に有利に働いていた進化の方向が、
ある時期を境にして、不利に働くように逆転するからだという説がある。例えば
恐竜の場合、体の巨大化という進化の方向が有利に働いて大発展した。しか
し、体の巨大化が限界に達した時、その大きな体が逆に種の保存にとって不利
になり、恐竜が絶滅したというのである。それは、巨大な体に見合うだけの食糧
の入手が困難になったのか、巨大化によって体の動きが鈍くなり、小動物に卵
を食われたためなのか、その詳細は明らかではない。しかし、とにかく巨大化
しすぎた体が種の保存に不利になって、恐竜は絶滅したというのである。また、
恐竜の体が、その当時の地球環境にあまりにも完全に適応しすぎたため、
ちょっとした地球環境の変化にも体がついていけずに、絶滅したという説もある。
これなども、「環境への適応」という、それまで有利であった進化の方向が逆に
仇(あだ)になっている。
恐竜絶滅の詳細については、色々と異論があると思う(注35)。しかし、それ
まで種の発展に有利であった進化の方向が限界に達し、それが逆に不利にな
るという考え方は、恐竜だけに限らず種の絶滅の一般論として納得できる
(注36)。
ところで、人類の場合は、大脳の発達が進化の方向であった。その結果、人類
は高度な知的能力である「理性」を持つに至った。もしも全面核戦争や地球環境
の大規模な破壊で人類が絶滅するようなことになれば、それはこれまで人類に
有利であった科学文明の発達が不利に逆転した典型的な例となる。核兵器の
製造や地球環境の破壊を行っているのは人間の理性である。このように理性の
使用を少し誤れば、人類を絶滅させることは既に十分可能である。人類の進化
により、理性の影響力はそれほどまでに巨大になってしまった。先ほど述べた種
の絶滅の一般論から類推すると、人類の絶滅は、その詳細はどうであれ、とにか
く高度な知的能力が原因となるであろう。
また、生命の否定が起こるのも高度な知的能力が原因なのである。知的能力
の低かった原始人には生命の否定など存在しなかったに違いない。しかし我々
現代人は、生命を否定するのに十分な知的能力を所有している。だから、高度
な知的能力は、生命の否定が起こるための前提条件である。
さらに、現代の物質文明が、生命の否定の蔓延に拍車をかけている。第2章
2節でも多少述べたが、現代の文明社会は競争の激化、情報の氾濫、人間不
信、いじめ、孤独などが横行している。だから慢性的に、不安、ストレス、焦燥、
疲労、挫折感、落ち込みなどに悩まされる。一方、ゆとり、安心、愛情、思いや
り、相互信頼などを実感する機会は非常に少ない(注37)。このような環境で
は、生きることの喜びが実感しにくく、生命の否定が起こりやすくなる。
そしてさらに、一見矛盾するように思うかも知れないが、現代社会では衣食住
の心配や生命の危険がないことが、つまり、人間の生存に対し何の支障にも
ならないことが、生命の否定を起こりやすくしている。というのは、衣食住や身の
安全の確保が重要な問題であった昔の時代(注38)は、理性の求める幸福や
喜びの全てが、衣食住と安全の確保であった。人生の目的は非常に単純であ
り、見失うことはなかった。しかし現代では、衣食住と安全に困らなくなり、それ
まで信じて疑い得なかった人生の目的が、喪失した。また、衣食住の満たされ
ている状態が当然になり、毎日の生活に対して生きる喜びと感謝の気持ちが
実感できなくなった。そして人間は第2章7節で述べた根源的な苦を強く感じる
ようになり、その苦しみを誤魔化すために、必要以上の金や権力や快楽を求め
だした。しかし、結局それは、苦悩や苦痛、不安、焦燥をさらに増加させてしま
う。こうして生命の否定は、いよいよもって強く起こる。
しかしこれは、特に現代だけに限ったことではない。昔の時代においても、
王侯貴族などの裕福な人間や、哲学者や思想家などの知的能力の優れた人
間の中には、たびたび厭世家(えんせいか:ペシミスト)が現われていた。これ
らの人々は、生命の否定に取りつかれていたのである。現代では物質文明の
発達で社会が裕福になり、また情報や教育の充実で知的能力も向上し、これが
一般民衆に波及して来たものと考えられる(注39)。そしてさらに、現代社会
の不安やストレスが生命の否定の蔓延に拍車をかけている。以上のことから、
現代の物質文明社会は生命の否定を蔓延させる環境だと言える。
物質文明の波及に伴い、もしも生命の否定が全人類に蔓延するようなこと
になれば、それは人類の存続にとって深刻な事態となる(注40)。というのは、
生命の否定が蔓延すれば、新しい生命を産み育てる意欲が喪失するからであ
る。そして、結婚や妊娠の拒否、及び人工妊娠中絶が当然のように行われ出
す。さらに生命の否定は、生命尊重のモラルの崩壊(注41)でもあるから、
幼児虐待や幼児殺害、殺人、自殺の増加を招く。もしもこれらの現象が全人類
に広がるならば、人類が種として衰退するのは明らかである。そしてこの問題
の性質は、核兵器や環境破壊より問題は深刻である。
核兵器や環境破壊などの外的要因(注42)の場合は、人類はまだ生き続け
る意欲を持っている状態である。だから、人類全体の協力によって外的要因を
取り除くことが出来れば、人類の絶滅を防ぐことがまだ可能である(注43)。
しかし、生命の否定の蔓延は、種として人類自らが死を望むような状態、つまり、
種としての生命力の衰退が進んでしまうので、もはや手の打ちようがないので
ある。
ところで、生命の否定に対抗するものとして、生存本能や母性本能などの
本能がある。しかし人間の場合は、理性で本能を抑えつけているため、これら
の本能が良く機能しない。例えば動物は、本能が実に良く機能しており、本能
の命じるままに生きておれば、無事に種の保存と発展が成就されるようになっ
ている。ところが人間は違う。人間は理性で本能を抑制しているので、色々な
本能が良く機能しない。と、いうよりは、人間は、本能を理性で抑制することに
より、発展してきたのである。動物は、火を怖がる本能のために、火を使うこと
は出来ない。しかし人間は、火を怖がるという本能を、理性の力で抑えつける
ことにより、火を使いこなせるようになった。つまり人間の理性は、本能に打ち
勝つ力を持っている。これはこれで理性の良い所である。ところが困ったことに
は、理性の働きによって起こる生命の否定も、生存本能を凌駕してしまう。生命
の否定は最悪の場合、人間を自殺にまで追い込む。そして理性の働きで起こっ
たこの自殺の衝動は、生存本能によって食い止めることの出来ない場合が多々
ある。そして現代社会では常に本能が理性によって抑制されている。このような
理性優位の環境では、ひとたび理性が暴走して生命を否定すると、生存本能が
打ち負かされるのである。実際、高い自殺率や低い出生率は、物質文明の進ん
だ先進国に見られる現象である。
しかしながら、現在のところ、地球の総人口は増加を続けている。これを見る
限り、生命の否定の蔓延を危惧するには及ばないように思える。ところが、人口
増加のほとんどは、発展途上国で起こっている。だから、物質文明が発展途上
国にも波及すれば、はやり生命の否定がはびこるであろう。もしも将来、全人類
の衣食住の心配がなくなり、病気や怪我、戦争などの生命の危機が完全になく
なれば、それは、人類の理想の世界であろう。そして人類は、その実現に向かっ
て、懸命に努力している。しかし、その時こそ、全人類に生命の否定が蔓延し、
人類が衰退する時なのかも知れないのである。
二〇〇〇年五月に国連は、少子化現象が先進国だけでなく、全世界で進む
と警告している。事態は、思っているより進んでいるのかも知れない(注44)。
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注34:
現在の私が、この3章3節を読み返してみると、すこし大風呂敷(おおぶろ
しき)を広げてしまったという感じが、しないでもありません。
しかしながら、いま大きな問題になっている「少子化」にたいしての、根本的
な原因に迫っているという確信もあります。
日本の政府が、ただ単純に「子育て支援」をいくらしても、「少子化の問題」
を根本的に解決することは出来ないのではないかと、私には思えてなりませ
ん。
注35:
たとえば、「巨大隕石の落下によって恐竜が滅んだ」という説があります。
注36:
このような考え方は、種の絶滅に限らず、巨大企業や巨大組織の崩壊、
国家の衰退などにも適用できるかと思います。
注37:
最近では非正規雇用の増加により、「ゆとり」や「安心」などからは、ます
ます遠く離れた世の中になってしまいました。
注38:
「昔の時代」というのは、日本でいえば高度経済成長を達成させる前の、
「貧しかった時代」のことを念頭に置いています。
注39:
たとえば「ひきこもり」の人々は、「一般民衆に波及してきた厭世家」の、
典型的な例ではないでしょうか。
注40:
古代ローマ帝国が滅んだときのような著しい衰退が、全人類的な規模で
起こるのではないかと考えています。
注41:
1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件。1999年に起こった光市母子
殺害事件。2008年に起こった秋葉原通り魔事件。2014年に起こった佐世
保女子高生殺害事件・・・
などなど、このような「訳の分からない殺人」が起こるたびに、「生命尊重の
モラルの崩壊」の兆(きざ)しが、現われて来ているのではないかと思ってしま
います。
注42:
核兵器も環境破壊も、人類自らが起こしている問題なので、「外的要因」と
いうのは少し語弊があるかも知れません。
しかしながら、ここでは、「人類はまだ生き続ける意欲を持っている状態」と
いうことで、「外的要因」と表現しました。
これに対して、「種として人類自らが死を望む状態」というのは、心の内面的
な要素が原因となっているので、本文には書いていませんが暗に「内的要因」
としています。
注43:
これまでのところ、「全面核戦争による人類の絶滅」は、いちおう避けること
が出来ています。
しかし一方、「地球温暖化による壊滅的な被害」については、将来的に避け
ることが出来るのかとうか、まったく予断を許さない状況です。
注44:
2015年8月に国連が発表した最新の予測によると、世界の女性1人当たり
の出生率は、現在の平均2.5人という値から、21世紀の末には平均2人に
低下するとしています。
出生率の減少幅がもっとも著しいのは発展途上国で、現在の4.3人から、
2100年には2.1人に低下するとみられています。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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