生命の「肯定」 4
                              2015年12月6日 寺岡克哉


 前回では、拙書 ”生命の「肯定」” の、第1部第2章6節まで紹介しました。

 今回は、その続きです。


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2-7 根源的な苦

 生命維持の苦は、全ての生物(注28)に共通の苦しみであったが、しかし、
人間にはさらに「根源的な苦」というものが存在する。

 根源的な苦は人間だけに存在し、動物には存在しない苦しみである。例えば
人間以外の動物は、個体と種族の維持に十分な肉体の欲求が満たされ、さら
に病気や怪我、外敵などの危険がなければ、他に何も求めようとしない。動物
は、この状態で十分に満足であり、何の不安も心配も感じない。ところが人間の
場合は、ここが違う。人間は、個体と種族の維持に十分な肉体の欲求が満たさ
れ、さらに身体が健康であっても、それだけでは絶対に満足しない。このように
生物として理想的な状態であっても、人間だけは、なぜか理由の分からない
漠然とした不安や空しさ、焦燥などを強く感じてしまう。これが「根源的な苦」で
ある(注29)

 根源的な苦は、どんなに欲望を満たしても、消滅させることが出来ない。なぜ
なら、その欲望を満たした途端に空しさを感じ、新たな根源的な苦が生じてしま
うからである。人間は、この根源的な苦を何とか誤魔化すために、高価な装飾
品を求めたり、美食に耽ったり、性的快楽や酒、賭博に溺れたり、金や地位、
名誉、権力などを強く求める。しかし根源的な苦は、その性質上、これら欲望の
追求では絶対に解消することが出来ない。なぜなら、どんなに欲望を達成させ
ても、達成した途端に新たな根源的な苦が生じるからである。だから、欲望をど
んどんエスカレートさせて、根源的な苦を永久に誤魔化し続けるしか方法がなく
なる。このため根源的な苦は、無限の欲望の原因となる。

 人間以外の動物は、根源的な苦が存在しないから、無限の欲望を持たない。
だから、生活に必要な程度の欲求で満足するのである。無限の欲望を持つの
は、根源的な苦が存在する人間だけである。そして無限の欲望は、苦悩や苦痛
及び悪を無限に生じさせる。だから人間は、動物に比べて余計なことに苦悩し、
動物以上に残忍で、動物より愚かな行動をとってしまう。動物は必要以上に食
欲や性欲を求めないし、遊びを理由に他の動物を殺さない。また、戦争や大量
殺戮もしない。人間だけがこのような酷いことをしてまで無限に欲望を追及する
が、欲望の追及で根源的な苦を消滅させることは、絶対に出来ない。なぜなら、
それが根源的な苦の性質だからである。

 そして、ほとんどの人間がそのことに薄々は気がついているのだが、わざと
それを認めようとしない(注30)。その理由は、「欲望の追及で幸福は得られな
い!」ということに気がつくのが非常に恐ろしいからである。なぜなら、ほとんど
の人間が欲望の追及以外に生きる拠(よ)り所を知らないからであり、欲望の追
及で幸福が得られないと知ることは、生きる意義を失うことに等しいからである。
しかしながら、必死になって欲望の追及にすがりついてみても、根源的な苦を
一時的に誤魔化すだけで、本当の幸福は絶対に得られない。それは、人類の
歴史が証明している。人類史の中には、富や権力を追及するあまり、その苦悩
によって病的にヒステリックになった王侯貴族、権力者、独裁者などが多数存在
している。また、数えきれないほどの政争や戦争、利権や派閥争いなど、欲望
追求の争いは一時たりとも人類史から消えることはない。これらは、「いくら欲望
を追及しても幸福は得られない」ということを明確に証明している。

 根源的な苦によって生じる無限の欲望は、人間として生きている以上は避け
られない苦しみであり、人類の悲劇の根源であるとも言える(注31)



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注28:
 「全ての生物」と言い切ってしまうと語弊がありました。なぜなら「植物」は、
苦しみを感じないかも知れないからです。しかし、ひょっとしたら、植物も苦しみ
を感じる能力があるのに、人間がそれを認識していないだけかも知れません。

注29:
 むしろ、すごく空腹だったり、疲労困憊(こんぱい)していたり、怪我や病気を
しているときの方が、この「根源的な苦」は感じません。
 肉体的な問題が何も無ければ無いほど、そのようなときに暇で何もすること
が無ければ、「根源的な苦」を強く感じるようになります。

注30:
 いちばん端的な例では、ふつうの生活をするのに十分な金があったとしても、
わざとそれを認めようとせず、「もっと金が必要だ!」と、さらに金を求めること
などが挙げられるでしょう。

注31:
 「根源的な苦」というものが本当に存在するのかどうかや、ほんとうに「根源的
な苦」が「無限の欲望」の原因となっているのかどうかは、学問的(哲学的、心
理学的)に証明された訳ではないので、異論のある人がいるかも知れません。
 が、しかし、ここで述べた考え方は、いま現在でも私は変わっていませんし、
自分の実感としても非常に納得しています。
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第3章 生命の否定

3-1 生命の否定とは(注32)
 これまで述べてきたことを踏まえ、「生命の否定」を説明すると次のようになる。
まず第2章で述べたように、「生きること」そのものが苦しみの原因であった。だ
から、どんなに幸福そうな状態であっても苦悩や苦痛は常に存在し、苦しみは
絶対に消えることがない。つまり「生きる」ということは、拷問(ごうもん)に耐え
続けているようなものである。ところが、この拷問に耐えて一生懸命に生きても、
最後には必ず死んでしまう。そして死ねば、財産、地位、家族、友人など、生き
ていた時に苦労して得たものの全てが、完全に無意味となってしまう。つまり、
苦悩や苦痛に耐え、苦労に苦労を重ねて一生懸命に生き抜いた結果、最終的
に得られるものは「死と無意味」だけである。ただそんな無意味で馬鹿げたこと
のために、拷問のような毎日を生きている。

 読者の中には、「生きている間に欲望と快楽を最大限に満足させて死ねば
それで良い!」と反論する人がいるかも知れない。しかし、死んでしまったなら
ば、そんな行為も結局無意味なのは依然として変わらない。しかも第2章で述べ
たように、欲望や快楽の追及はかえって「生きている間」の苦悩や苦痛を増加さ
せてしまう。

 そして、さらに悲劇的なことには、人間は性欲の処理の失敗や、子供が欲しい
などといった勝手な理由で子供を作り、苦悩や苦痛の拡大生産をする。

 これでは生きる目的や意義など見出せるはずがない!

 また、第1章で考察したように、生まれる前や死後においては苦悩や苦痛及び
死の恐怖は一切存在しない。生まれる前と死後とは全く同じ状態であり、何億
年という長い時間でさえ一瞬にも感じない世界である。全ての人間は、遅かれ
早かれ必ず死ぬ。そして長い年月を苦しみぬいてから死んでも、明日にでもすぐ
に安楽死しても、死ねば全く同じである。ところで、真の幸福とは一時の快楽や
満足のことではなく、一切の苦悩や苦痛がなくなった状態のことである。苦しみ
が少なければ少ないほど幸福な状態であると言える。このように考えると、生ま
れて来ないことが最高の幸福であり、不幸にして生まれて来たものは、死ぬの
が早ければ早いほど幸福であると結論される。逆に、苦悩や苦痛と死の恐怖を
強いるだけである生命の存在は、もはや無意味を通り越して悪でさえある。こん
な「生命」など存在しない方が良かったのである。

 「生命の否定」とは、以上のような考えに取りつかれてしまうことである。



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注32:
 かつて私自身も、「生命の否定」に取りつかれて、悩み苦しんでいました。
この節で述べたことは、そのときに色々と考えて到達した結論です。
 ところで心配なのですが、生きるのが辛くて自殺をするギリギリまで追いつめ
られている人にとっては、ここで述べている「生命の否定」という考え方が、もの
すごく大きな説得力を持ってしまうのではないでしょうか。
 しかし私は、けっして自殺を奨励している訳ではありません。本書の目的は、
「生命の否定」を何とかして解消し、積極的に生命を肯定できるようになること
です。
 本書全体の内容は、「生命の否定」に取りつかれていた私の、自分自身との
生きるための闘いを、書き綴(つづ)って行ったものと言えます。
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3-2 生命の否定は理性の働きである
 このような生命の否定は、人間の「理性」が原因で起こる。ここで言う理性と
は、「人間だけが持っている高度な思考能力」のことであり、哲学的な難しい
意味ではない。古来より理性は、人間と動物を区別するものとされている。
動物は理性を持たないから生命を否定することはないし、そもそも生命を否定
するような思考能力がない。生命の否定は、理性を持つ人間だからこそ可能
なのである。

 ところで、理性の働きによって生命の否定が起こるのは「生きること」に合理
的な意味づけがなされていないからである。

 「何のために生きるのか?」
 「なぜ苦悩や苦痛に耐えて生きなければならないのか?」
 「生命維持の苦を突きつけて生きることを強いておきながら、なぜ最後に
 死ななければならないのか?」

 これらの疑問に対して、理性の納得する解答が得られないので、生命の否定
が起こるのである。人間の理性は、苦悩や苦痛に耐えて生きるのに十分に見合
うような、そして死によっても喪失しないような、人生の意義を強く求めている。
しかし、いくら努力してもそれが得られないとなると、人間の理性は生きる苦悩
や苦痛だけしか認識できなくなる。そして「生きることは無意味だ!」と理性が
判断し、生命の否定が起こるのである。

 「生きることの全ては苦しみである。」
 「生きることは無意味である。」
 「人生は空しい。」
 「人間の存在は悪である。(注33)
 「生命の存在は悪である。」

 これら生命の否定によって生じる苦しみは、苦悩や苦痛の存在が、苦しみの
原因なのではない。そうではなく、人間の理性が強く求めている「生きる意義」
の喪失が、苦しみの原因なのである。



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注33:
 大規模な原発事故による、広範囲な放射能汚染。二酸化炭素の大量放出
によって起こった、地球温暖化と気候変動。世界各地で起こっているテロと、
その報復としての空爆の、いたちごっこ。
 これら人類の愚行を見ていると、私は今でも、「人間の存在は悪である!」と
いう思いに駆(か)られてしまうことがあります。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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