隣人愛について       2003年7月6日 寺岡克哉


 私は、前回にお話した慈悲と並んで、「隣人愛」もまた、「生命を肯定する正しい愛」
の代表格にふさわしいと考えています。
 だから私の話には、「隣人愛」もよく出て来ます。しかしながら、隣人愛の詳しい意味
については、今まであまりお話しませんでした。だからこの機会に、「隣人愛」について
も、少し詳しくお話したいと思いました。
 ところで、「隣人愛」の正確な意味を捉えようとすれば、どうしても新約聖書やその他
の書物を参考にしなければなりません。だから少し堅苦しい話になりますが、そこは
ちょっと我慢しておつきあい下さい。

                * * * * *

 新約聖書の中で、キリストが「隣人愛」について語っているのは次の言葉です。

 「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイによる福音書22章39節)

 この言葉から、隣人愛は自己愛を前提としていることが分かります。
 それは、自己否定に陥っていると、隣人を愛することなどとても出来ないので当然
です。
 しかしこの自己愛とは、エゴイズムやナルシシズム、自己陶酔、自信過剰、自意
識過剰などと言った、「間違った自己愛」のことではありません。このような「間違っ
た自己愛」に陥っても、隣人を愛することは出来ないからです。
 隣人を愛するためには、「正しい自己愛」を持たなければならないのです。
 ところで「正しい自己愛」とは、例えば・・・ 自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎
悪を抑制して暴力をふるわず、社会の平和と心の平安を望み、しかし周りに迎合
することなく自分の信念に忠実に生きる・・・と、いうような自己愛です。
 このように、自分を正しく愛することが出来てはじめて、隣人を愛することが出来
るようになるのです。

 また、「隣人愛」についての有名な議論に、「隣人とは誰か?」という問題があり
ます。
 隣人とは、自分の家族や親しい友人のことなのか?
 同じ村や町に住んでいる人たちが隣人なのか?
 同じ国の人が隣人なのか?
 一体どこまでの人間を、自分の隣人として愛せば良いのか?
という問題です。それについてキリストは、次のように答えています。

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 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い
はぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま
立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こ
う側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見る
と、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしているサマリア人は、そばに来る
と、その人を見ると哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自
分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀
貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用
がもっとかかったら、帰りがけに払います。」さて、あなたはこの三人の中で、だれが
追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 (ルカによる福音書10章30−36節)
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 この話には、追いはぎに合った被害者のほかに、ユダヤ教の祭司、レビ人、サマ
リア人という三人の人間が出てきます。そしてこの話を理解するためには、これら三
人がどういう人間なのか知る必要があるのです。
 ユダヤ教の祭司は神に仕える正しい人で、同朋が困っていたらまっさきに救いの
手を差しのべなければならない人です。
 レビ人とは、エルサレムの神殿で門番と聖歌隊を兼ねているような役職の人で、
やはり神に仕える人です。
 そしてサマリア人とは、パレスチナのサマリア地方に住む人々のことです。その昔
この地方は外国によって占領され、そのときに移住してきた外国人と従来から住ん
でいたユダヤ人との混血がサマリア人なのです。排他的で選民思想の強いユダヤ
人は、サマリア人を「混血児」として忌み嫌い、軽蔑してつき合いませんでした。

 ところで追いはぎに襲われたのはユダヤ人です。だからこの人を隣人として一番
に助けなければならないのはユダヤ教の祭司で、その次がレビ人です。
 そしてサマリア人にとっては、この追いはぎに襲われたユダヤ人はもはや隣人で
はなく、助ける義務もありません。
 しかし結局、追いはぎに襲われた人を助け、その人の隣人となったのはサマリア
人でした。
 この話は、次のことを示唆しています。
 見ず知らずの人でも、さらにはお互いに忌み嫌い、敵対する人間であっても、その
人が困っていたら、自ら進んで隣人となって助けてあげること。
 つまり、「誰が自分の隣人なのか?」が問題なのではなく、「自ら進んで隣人
となること」が、隣人愛の本質だというのです。

 そしてこのことから、「隣人愛とは、自分以外の全ての人に対する愛である」
と言うことができるのです。


 ところで私は、「隣人愛とは、他人の命を救うような仰々しいことだけではない」と考
えています。
 例えば、自分の人生に色々と嫌なことがあっても、周囲の人間や社会に対して怒り
や憎しみをぶつけないこと。
 怒りが込み上げてムカついても、他人を罵ったり、暴力をふるったりしないこと。
 弱い人間に対して、いじめや差別を行わないこと。
 そして出来れば、優しさや微笑をいつも絶やさないように努力すること。
 このように、周囲に対する「ほんの少しの思いやり」を持つだけでも、それは立派
な隣人愛だと思うのです。
 確かに、これらの行為は大したことではないかも知れません。しかしながら、殺伐
としてストレスの多い現代社会では、このような「ほんの少しの隣人愛」を社会全体
に浸透させることこそ、もっとも重要で大切なことだと考えています。


参考文献
 新約聖書  新共同約   日本聖書協会
 愛について キェルケゴール 新潮文庫
 キリスト教がよくわかる本 井上洋治 PHP文庫
 イエスの生涯 ジェラール・ベシエール 創元社



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