生命の「肯定」 2
                             2015年11月22日 寺岡克哉


 前回では、拙書 ”生命の「肯定」” の、「目次」と「はじめに」を紹介しました。

 今回は、その続きの第1部第1章1節から、ご紹介したいと思います。


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第1部 生命の否定とその解消 -大生命について-


第1章 死について


1-1 死の性質
 より良く生きるためには、まず最初に「死」の意味を正確に捉えておく必要があ
る。なぜなら、死を正しく知ることにより、逆に生きる意味や生命の意義が分かっ
て来るからである。そこで本書のはじめにあたり、まず、死の性質を客観的に分
析してみようと思う。

 人間は、生まれたからには必ず死ぬ。
 そして、死を免れることは誰にもできない。
 私もあなたも、いつかは必ず死ぬ。
 もしかしたら、明日死ぬかもしれない。

 どんなに金や地位、権力、名誉、名声を持っていても、死ねば無名の生活困窮
者と全く同じである。どんなに知性とセンスがあり、善良で優しい人でも、死ねば
凶悪犯罪者や独裁者と全く同じである。いかに聖人君子であっても、死ねば愚か
な俗人と全く同じである。どんなに人生が充実し、満足している人でも、死ねば後
悔や未練をたくさん残して死んだ人と全く同じである。

 死んだ人間には生前など存在しない。生前の業績、徳、罪、財産、地位、家族、
友人など、何もかもが一切存在しない。つまり、最初から生まれてこなかったのと
全く同じ状態である(誤解のないように断ると、生きているうちに凶悪犯罪や殺人
をやりたい放題にやって良いはずはない。本書を読み進めば理解してもらえると
思うが、「個の生命観」では殺人は悪にならないが、「大生命の生命観」では悪に
なる)。

 死は、自然の摂理によって与えられた絶対の真理である。全ての人間は必ず
死ぬという意味で、自然法則的には全く同等の存在である。だから、いかに聖人
君子でも、または凶悪犯罪者や独裁者といえども、いつかは必ず死んでしまう、
孤独で哀れな自分と同じ人間なのである。そしてまた、自分を良く生かしきるため
にも、この「自分は必ず死ぬ!」という認識が非常に大切である。なぜなら、自分
に与えられた時間を最大限有効に使おうとする意識がそれによって生じるからで
ある。



1-2 死は苦ではない
 自分が死に直面する時、死ぬまでは恐怖や苦痛を感じるだろうが、いったん死
んでしまえば、死そのものは苦ではない。それは、生まれる前のことを考えれば
よく分かる。生まれる前には、苦痛や苦悩など全く感じていなかった。それどころ
か、我々が生まれる前には何億年もの時間が存在していたが、我々はそれを一
瞬にも感じていなかったはずである。我々が生まれる前に存在していた時間、そ
れは、宇宙の発生とともに時間も発生したと考えると、およそ140億年ぐらいであ
る。しかし我々は、そのような長い時間を、千分の一秒にも感じていないのである。
我々の死後にも同じように、何億年の時間が経とうが、我々は一瞬にも感じるこ
とが出来ないであろう。宇宙の終わりとともに時間も消滅すると考えると、我々の
死後にはたぶん、数百億年の時間が存在するであろう。しかし、我々の実感に
とってそれは、千分の一秒以内の出来事である。

 ゆえに、死そのものは苦ではありえない。もし我々が死んだならば、苦など感じ
ている暇も時間も全くないのである。だから厳密には、死は苦ではないし、「死が
苦ではない」ということさえも、実は感じることが出来ない。これが「生まれる前」
という全人類が経験した大多数の事例に基づく、死後に対するいちばん客観的
な類推である(注6)

 さらにまた、我々が毎日のように経験している「熟睡」の状態も、実は「死」と全
く同じ状態である。完全に熟睡している時は、時間を一瞬にも感じられない。そし
て苦を感じないし、「苦がない」ということも感じられない。つまり我々は、毎日の
ように「死」を経験している。例えば簡単な思考実験として、もしも自分が熟睡中
に頭をピストルで撃たれるか何かして即死させられたとしたら、やはり自分は何
の変化も感じられないであろう。ゆえに、死と熟睡は全く同じ状態なのである
(注7)。だから死を必要以上に怖がることはないと思う。しかし、自殺を奨励し
ているわけではない。本書の目的は生命を肯定し、いきいきと生きることなので
ある。

 また、死後の世界を信じることで救われる人がいるならば、私はその人を特に
否定はしない。各人のそれぞれに合った方法により、生きる意義を追及すれば
それで良いのだと思っている。しかしながら、理性を介さない盲目的な信仰には
危険が伴うことに注意を呼びかけたい(注8)。本書は、死後の世界や輪廻(りん
ね)や神の存在などを、本気で信じることの出来ない人達のためのものである
(注9)。生きる意義の問題を、盲目的な信仰によってではなく「理性」によって解
決しようとする人達のものである。



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注6:
 現在では医療技術の発達により、「心肺停止の状態」から意識を取りもどした
人が多くなっていると思います。本書の出版後に、私の父の知人が心肺停止の
状態になり、病院の集中治療室で意識を取りもどしたことがありました。その人
の話によると、自宅で意識が朦朧(もうろう)となり、家族に助けを求めましたが
声を出すことができず、気が付いたら集中治療室のベッドに寝ていたそうです。
 もしも心肺停止のまま、病院に運ばれるのが少しでも遅れたら、ほぼ間違い
なく死んでいたわけで、「自分の死そのものは実感できない」という本書の考察
にたいし、この話を聞いたことでさらに確信を持った次第です。

注7:
 「死と熟睡が全く同じ状態」と言い切ってしまうと、御幣(ごへい)を招く恐れが
あるかも知れません。「生理的な状態」においては、死と熟睡は違う状態だから
です。
 読者の皆さんには分かってもらえると思いますが、ここで主張したかったのは、
「本人の実感として(実感が不可能という意味で)」、死と熟睡が全く同じである
ということです。

注8:
 例えばイスラム過激派組織は、自爆テロの人員を確保するために、「死ねば
天国で幸せに暮らせる」というような、洗脳を行っているとされています。私は、
そのような行為を断固として否定します。

注9:
 現在の私は、「(自分自身が実感できる)死後の世界」の存在は否定しますが、
「輪廻」や「神」の存在については、理性的・科学的に捉えることができる一面も
あるのではないかと考えています。
 それについては、本サイトの「エッセイ102 輪廻について」と、「エッセイ152 
理神論について」で述べております。
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第2章 苦について

2-1 生こそが苦である
 前述のように、死ぬことには恐怖や苦痛を伴うが、いったん死んでしまえば、死
そのものは苦ではない。実は、生きることにこそ、大いなる苦悩や苦痛が存在す
る。生きているからこそ死への恐怖や苦痛も存在する。病気、怪我、飢え、生存
競争、人間関係、欲望、失恋、闘争、老化、死別など、生きることの苦悩や苦痛、
恐れや不安などを数え上げたらきりがない。

 人間は長い間、幸福になるための努力を色々と続けて来た。しかし、苦悩や苦
痛は常に存在し、消えることはなかった。なぜなら「生きること」そのものが苦しみ
であり、「人間の存在」そのものが苦しみの原因だからである。だから、一見どん
なに幸福そうな状態であっても、その中に必ず苦悩や苦痛が存在している。

 以下、その例をいくつか見ていこうと思う。



2-2 科学の発達
 科学文明の発達は飢えを根絶し、病気を治し、人間の寿命を延ばした。そして、
先進諸国の生活水準は、人類史上最高の状態になっている。これは非常に幸福
な状態であると言えよう。しかし、それらとひきかえに大きな不幸も生み出した。
例えば戦争による大量殺戮(さつりく)である。しかも原爆の実用化により、これも
また人類史上最悪の状態になっている。このように、どんなに幸福な状態であっ
ても、その中に必ず不幸が存在しているのである。

 科学文明がもたらす不幸の中で、我々に最も身近なものは交通事故であろう。
日本では交通事故の死者が毎年約一万人もいる(注10)。これは、1995年に起
こった阪神大震災の死者、約6000人よりも多い数である。人類は生活の便利さ
のためなら、これぐらいの犠牲は平気なのである。だから、もしも人類のエネル
ギーが原子力以外になにもない状態に陥ったら、原発事故で毎年1万人ぐらい
の死者が出ても、交通事故と同じくらいの平気な感覚でいることだろうと思う
(注11)。そのようなエネルギー状況にはまずならないと思うが、死者の数を原
発事故の場合に置き換えてみると、交通事故の多さがリアルに実感できる。死者
の数で比較すれば、交通事故は阪神大震災の2倍弱であり、しかも、それは毎
年起こっているのである(同注10)

 これまでの物質科学文明は「人の心」というものを軽視して人間性を犠牲にして
来た面があり、それによる不幸も生じている。物質文明は人間を物質的、機械的
に扱う。物質文明は機械による大量生産がその基本にあり、このような社会では
製品の生産効率を上げた者が生産競争の勝者になる。だから、機械を効率よく
稼働させるために、人間をも機械的に統率するようになった。そしてこの方法が
機械を扱う工場だけに留まらず、人間の活動全般に波及したのである。その証
拠に、人間のあらゆる行動は、毎日の起床や出勤から退社や就寝に至るまで、
分単位の時間できざまれ、拘束されている。物質文明社会にとっては、人情や
情操、心のゆとりや心の豊かさなどといった人間性は、不必要であるとでもいうか
のように邪魔とされて来たのである(注12)

 しかしながら、「人の心」を軽視したこのようなやり方は、そろそろ限界に近づい
ていると思う。なぜなら、例えば物質文明の典型は都市生活であるが、都市での
仕事の場では、複雑な人間関係や大量の情報に人間の脳が対応しきれず、し
かも常に仕事が時間に追われ、そのストレスで精神が悲鳴をあげているからで
ある(注13)
 また、都市での生活の場は団地やマンションがほとんどであるが、そこでは隣
の住人でさえも、顔や名前が分からない始末である。そのため隣近所のつきあ
いによる、ごく自然な相互監視がなくなってしまい、モラルが低下して、犯罪も多
くなる恐れがある(注14)
 このような都市環境の下では、慢性的に精神疲労、ストレス、人間不信、孤独、
不安、焦燥などが起こるのは当然である。そして、これらが嵩じると神経症や
鬱(うつ)病に陥り、最悪の場合は生きる意欲を失って自殺してしまうのではない
だろうか。私は物質文明を否定するつもりはないが、しかし、物質的な豊かさだ
けで人間が幸福になれないのは事実だし、それを実感している人も多いのでは
ないかと思う。

 そして、餓死の心配のない先進国において自殺が絶えないのが、それを証明
していると思う。日本の自殺者は1999年の統計で三万三〇〇〇人であった
(注15)。これは、生命の維持に十分な衣食住の物資が保障されていても、そ
れだけでは人間は生きていけないことを十分に証明する数字である。たとえ経済
上の理由の自殺であっても、そのほとんどは、餓死や凍死の心配が全くないの
に自殺しているからである。アフリカ難民の子供のような餓死の危機など、先進
国の人間には存在していないのである(注16)



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注10:
 近年では、交通事故による死者が年間4000人台へと減ってきています。

注11:
 本書を執筆した当時は、福島第1原発事故が起こる10年ほど前であり、
大規模な原発事故にたいするリアルなイメージを、まだ私は持っていません
でした。
 広範囲な放射能汚染により、人が住めない「死の土地」が出来てしまうこと
を考えれば、いくら死者数が同じ程度であっても、原発事故が交通事故と同じ
ような感覚でいられないのは、いま現在では明白です。
 しかしながら、あれほどの大事故が起こったのに、それでも原発再稼働を
進めるところを見ると、もしも人類のエネルギーが原子力以外になにもない
状態に陥ったら、いくら大規模な原発事故が発生しても、原子力発電を続け
て行くような気がしてなりません。

注12:
 現在では非正規雇用が増加し、またブラック企業やブラックバイトなど、労
働者の人格や人間性を無視する風潮がさらに拡大しています。

注13:
 近年問題になっている「パワーハラスメント」が起こるのも、「人の心」という
ものを軽視しているからに他なりません。

注14:
 私もマンションに住んでいますが、隣の住人の顔も名前も分からないという
状況には、ほんとうに気味悪さを感じます。
 本書で指摘した「モラルの低下」も問題ですが、これからは高齢化社会がさ
らに進んで1人暮らしの老人が増え、孤独死した人の遺体がしばらく放置され
てしまう(腐敗してしまう)という問題が、ますます深刻になって行くような気が
してなりません。

注15:
 日本の自殺者数は、1998年から2011年まで連続して毎年3万人を超えて
いましたが、その後すこしずつ減少していき、2014年では25427人となって
います。
 それでも本書で指摘した、「衣食住が十分でも、それだけでは人間は生きて
いけない」という根拠を示すには、(とても不幸なことですが)十分に大きな自殺
者数です。

注16:
 ユニセフによると、21世紀に入って15年目になる昨今でも、主にアフリカな
どの貧しい国々では、年間およそ300万人もの5歳未満児たちが栄養不良に
よって死んでいます。
 食糧不足の原因としては、まず「紛争による混乱」が挙げられますが、地球
温暖化による干ばつや洪水などの「異常気象」も深く関係しています。
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 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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