正しい理性と間違った理性
                            2002年4月12日 寺岡克哉


 私はよく、「理性的な愛」とか「理性的な自己」などのように、「理性」という言
葉を使います。そして「正しい理性」とか「歪んだ理性」、「間違った理性」など
という言葉も使います。
 ところで、一般的に理性は「正しいもの」とか「善いもの」、「善や真理を認識
する能力」などとされていますから、「理性が歪むのか?」とか「理性が間違う
のか?」という疑問をもつ人もいるかと思います。
 今後の議論の混乱を和らげるために、私の使う「理性」という言葉の意味
を、ここで少し整理してみたいと思います。
 ところで「理性」は、哲学の分野で大変に難しく考察されています。しかし私
は、そのような哲学的な難しい意味で「理性」という言葉は使っていません。
そしてお恥ずかしながら私自身も、哲学的な難しい意味での、理性の概念は
理解しておりません。

 私が「理性」という言葉を使う時は、「人間に特有の高度な思考能力」とい
う意味で使っています。

 このような意味で「理性」という言葉を使えば、「正しい理性」と「間違った理
性」が存在することになります。なぜなら、「人間に特有の高度な思考」は、
正しかったり、間違ったりするからです。
 そして何が「正しい理性」で、何が「間違った理性」なのかは、「良識」によっ
て判断することにしています。
 この「良識」というものも、実は「理性」が判断し、認識するものです。しかし、
これ以上の議論の深入りは、返って話が現実から離れてしまいます。「正しい
理性」と「間違った理性」を判定する「絶対理性」のようなものを、定義する必
要に迫られるからです。
 「絶対理性」に対する考察を延々と行うのは、あまり有益であるとは思えませ
ん。「絶対理性」は、人類が行う全ての思考に対して、正しいか、間違っている
かを、”絶対に間違うことなく”判断する、絶対者(神)のようなものだからです。
 「絶対理性」に対する考察は、どうしても、「絶対善」、「イデア」、「絶対者」、
「神」などのような考察になって行きます。そして、どんどん現実の問題から離
れてしまいます。

 私は、「正しい理性」と「間違った理性」を判断する「良識」は、人類の長年
の経験によって培った「人類の良識」とすれば十分であると考えます。

 人類の良識には、例えば「人を殺すな!」というのがあります。
 ところで、この「人を殺すな!」という人類の良識に異を唱え、「なぜ人を殺し
てはいけないのか?」という議論が一時期はやりました。しかし、そのような質
問をする人は、いちど自分の心に聞いてみてください。
 「それでは、自由にやりたい放題に人を殺しても良いのか?」と。
 心の底の底、無意識層に焼き付けられた「良識」に素直に照らし合わせて、
どちらが正しいと実感するか? 単なる言葉のお遊びではなく、本当の「心の
底の実感」としてどう感じるか?
 多分ほとんどの人は、「人は殺さない方が正しい!」と実感すると思います。
これが人類の良識なのです。
 人類の良識は、人類が文明社会を築いて来た何千年もの歴史の中で、養
われて来たものです。数え切れないほどの成功と失敗の経験を積み重ねて
得られたものです。
 殺人や戦争を数え切れないほどやってきて、怒りや憎しみや悲しみに打ち
ひしがれ、苦しみにのたうちまわり、その結果「やはり人を殺さない方が良い
のだ!」と人類が判断し、それを「人類の良識」としたのです。
 そしてそれが人々の間に浸透し、人類社会を構成する大多数の人間の深
層心理の中に、共通の集団心理として組み込まれて行ったのです。だから
多くの人は、議論や考察の必要なく「人を殺すのは悪い!」と、心の底から感
じるようになったのです。
 「人類の良識」とは、このようなものです。

 この「人類の良識」を導入すれば、「正しい理性」と「間違った理性」の判断
が可能になります。
 ここ数千年の人類の経験で培われてきた「人類の良識」に従い、「正しい理
性」と「間違った理性」を具体的に述べると、大体次のようになります。

「正しい理性」とは、
 他人や他の生命を好きになることに、理性を使うこと。
 他人の人格を把握し、尊重することに、理性を使うこと。
 他人の悲しみや苦しみを理解することに、理性を使うこと。
 他人を思いやることに、理性を使うこと。
 助け合いの精神を育成することに、理性を使うこと。
 利他の精神を育成することに、理性を使うこと。
 過度の性欲(などの本能的欲求)を抑制することに、理性を使うこと。
 自分勝手なエゴイズムや、自意識過剰を抑制することに、理性を使うこと。
 平和の実現に、理性を使うこと。
 隣人愛、人類愛、慈悲の把握と実践に、理性を使うこと。

一方、「間違った理性」とは、
 自分勝手なエゴイズムを増長させることに、理性を使うこと。
 怒りや憎しみ、妬みなどを駆り立てることに、理性を使うこと。
 他人に悲しみや苦しみを与えることに、理性を使うこと。
 盗み、暴力、殺人などの犯罪に、理性を使うこと。
 性欲などの本能的な欲求を過度に求めることに、理性を使うこと。
 無益な殺生に、理性を使うこと。
 金や地位、権力などを過度に求めることに、理性を使うこと。
 無慈悲、冷酷、思いやりのなさ、他人に対する無関心、などを増長させる
ことに、理性を使うこと。

 以上が、「正しい理性」と「間違った理性」の具体例です。上記のものは、洋
の東西を問わず、2千年以上にもわたって受け継がれてきた「人類の良識」
に従ったものです。

 人間に特有の高度な思考能力である「理性」は、良いことも、悪いことも考
えます。良いことを考えれば、理性は、必然的に悪いことにも思いつくのです。
良いことの反対が悪いことだからです。
 人間の理性は、いつも二対の概念を創出します。ある概念と、その反対の
概念と。そして、どちらの概念が好ましく(正しい、善)、どちらの概念が好ま
しくない(間違い、悪)かは、人類の長年の経験(人類の良識)によって判断さ
れて行くのです。



            目次にもどる