沖縄の基地問題 7
2015年5月10日 寺岡克哉
前回では、
沖縄の人々が、「アメリカ軍への敵対心」を増大させた原因として、
● 「沖縄戦」のときに、爆撃だけでなく、毒ガス、火炎放射器、銃殺など、
「殺す側の人間が直接見える形」で、たくさんの「一般住民」の人々が
殺されたこと。
● ものすごく多くの「一般住民」の人々が、強制的に収容所へ送り込まれ
たこと。
● アメリカ兵による、拉致、暴行、強姦、強盗、虐殺などが横行し、その
ような「アメリカ兵による犯罪」が、沖縄が返還された後、近年においても
発生していること。
について見てきました。今回は、その続きです。
* * * * *
さて、
沖縄県の翁長知事は、4月5日の菅・官房長官との会談や、4月17日
の安倍首相との会談で、
「沖縄は、自ら基地を提供したことはない」
「普天間飛行場も、それ以外の基地もすべて、戦争が終わって県民が
(民間)収容所に入れられている間に、”銃剣とブルドーザー”で(住民の
土地が強制接収されて)基地が造られた」
と、いうことを述べています。
しかし私は、この「銃剣とブルドーザー」というのが、具体的にどんな
行為だったのか、いま一つ分かりませんでした。
ところが、2004年8月28日付けの長周(ちょうしゅう)新聞の記事を
見て、そうとうに酷(ひど)い行為だと分かったのです。
その記事には、以下のように書かれていました。
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米軍は住民の土地をむりやりとり上げて基地を拡張し朝鮮侵略戦争の
ための基地労働者としてこき使っていった。
その典型が伊江島での銃剣とブルドーザーによる土地強奪だった。
米軍は53年に伊江島の真謝部落の測量を開始し翌年には「農耕も
自由。損害を受ければ補償する」といって4戸を5日間の期限で立ち退か
せた。そして射撃演習の目標をつくるためブルドーザーで畑を荒した。
他の農民の芋畑500坪も荒したうえ、爆撃演習でスイカ畑300坪が
焼かれ全滅。植付けしても演習で焼かれるため、農耕はできず食糧難と
なった。
だが米軍にいうと「すでに土地は借用済み」と追い返すだけだった。そし
て54年9月には150万坪の土地の接収と民家152戸の立ち退きを通告。
55年3月には農民たちの激しい抗議を受けるなか、3隻の大型上陸用
舟艇が伊江島に上陸。約300人の武装米兵がジープ、トラック、催涙ガス
を用意して真謝部落に突入した。
抗議する地主代表にたいして米軍は「米軍の地をもって日本軍よりぶん
どった伊江島であるから米軍の自由であり勝手である」といい作業を強行。
そして農民が育ててきた芋、落花生、サトウキビ、防風林の松、畜舎、納屋、
家屋敷もブルドーザーでひきならしていった。
そして100万坪の農民の土地をジェット機演習場として金網で囲んだ。
さらに13戸の家には住民がまだ家財道具を持ち出そうとしているにも
かかわらず、かまわず火をつけ破壊した。
そして銃を突きつけて住民を1カ所に追い立て、「このカネは君たちの家を
破壊した賠償金だから受けとれ」とカネを押しつけ、指を持って強引に捺印
させた。
抵抗して農耕をつづける農夫を見つけると米兵はなぐるけるの暴力をふる
い、逮捕して実刑を科した。
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このような酷(ひど)い行為。
つまり、「銃剣とブルドーザー」による、一般住民からの土地の強制
接収も、
沖縄の人々が「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、原因の1つと
考えられます。
* * * * *
また、
沖縄県の翁長知事は、4月5日の菅・官房長官との会談で、以下の
ようにも述べています。
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菅・官房長官が「粛々」という言葉を何回も使う。埋め立て工事に関して
問答無用という姿勢が感じられる。
その突き進む姿は、米軍の軍政下に置かれた沖縄だ。
その時の最高の権力者だったキャラウェイ高等弁務官は「沖縄の
自治は神話である」と言った。
私たちの自治権獲得運動に対し、そのような言葉で言っていて、なか
なか物事は進まなかった。
官房長官の「粛々」という言葉がしょっちゅう出てくると、キャラウェイ高等
弁務官の姿が思い出される。
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上に出てきた「高等弁務官」というのは、アメリカ統治下の沖縄での
最高責任者です。
その下に、沖縄の人々による「琉球政府」がありましたが、琉球政府
の主席(知事に相当)は、高等弁務官が任命していました。
つまり沖縄の人々は、自分たちの首長を選挙で決めることができず、
「自治権」が認められていなかったのです。
キャラウェイ氏は、1961年2月16日から1964年7月31日まで
第3代琉球列島高等弁務官を務め、司法、立法、行政の全権を掌握
(しょうあく)しましたが、
当時のことについて、琉球大学の比屋根・名誉教授は、
「立法院(注1)の審議や企業の人事、教職員会の活動などに次々と
介入した。人権や言論の自由も軽視され、植民地支配と同じだった」
と、指摘しています。
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注1 立法院:
琉球政府の立法機関で、日本に復帰後は、沖縄県議会になりました。
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ところで、
キャラウェイ高等弁務官の問題発言があったのは、1963年の3月
5日。
那覇市のアメリカ軍将校クラブ「ハーバービュークラブ」(現在のハー
バービューホテル)でのことです。
その場所で、キャラウェイ高等弁務官は講演を行ない、「(沖縄住民
の)自治は神話だ」と述べて、
沖縄の自治権拡大を、認めない姿勢を示したのでした。
この「自治神話論」が契機となって、
沖縄では、アメリカ軍政への反発が強まっていき、
住民による自治運動や、権利獲得運動が、一気に盛り上がりました。
その後、
キャラウェイ高等弁務官は、「更迭」に追い込まれ、
琉球政府の主席の直接公選などが実現したほか、沖縄の日本復帰
運動も加速していったのです。
このように、
住民の自治が認められず、人権や言論の自由が軽視され、まるで
「植民地支配」と同じような扱いを受けたこと。
これも、沖縄の人々が「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、原因の
1つと考えられます。
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さらに、
沖縄県の翁長知事は、4月5日の菅・官房長官との会談で、
キャラウェイ高等弁務官の話につづいて以下のように述べています。
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この27年間の苦しい中で強制接収された土地を、プライス勧告という
もので強制買い上げをしようとした。
とても貧しい時期だったから、県民は喉から手が出るほどお金が欲しかっ
たと思うが、力を合わせてプライス勧告を阻止した(島ぐるみ闘争)。
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ここに出てくる「プライス勧告」というのは、1956年6月9日に、
アメリカ下院軍事委員会特別分科委員会委員長のメルヴィン・プライス
が、議会に提出した、
沖縄の基地や、軍用地問題に関する報告書です。
その内容は、
①沖縄基地は、核兵器の貯蔵・使用に制限を受けない。
②沖縄基地は、アジアの紛争に対処するアメリカ極東戦略の拠点。
③沖縄基地は、日本やフィリピンの親米政権が倒れたときに重要。
という3点について強調しています。
アメリカ側は、「核戦争」をも視野に入れて、基地機能を保つために
土地の買い上げを進めようとしました。
が、しかし、
そのような「土地の買い上げ」にたいし、沖縄住民の人々による反対
運動が、どんどん強まって行ったのです。
それが「島ぐるみ闘争」です。
これら、「プライス勧告」と「島ぐるみ闘争」の背景について、沖縄県の
公文書館のサイトでは、以下のように説明しています。
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1950年代、朝鮮戦争の勃発や中華人民共和国の成立、米ソ冷戦時代
の背景を受けて、米軍は沖縄への恒久的基地建設を本格化しました。
そして「銃剣とブルドーザー」に象徴されるように、強制的な土地接収
が行われました。
こうしたなか、さらに米民政府(注2)は、1954(昭和29)年3月17日、
米陸軍省の「軍用地一括払い」の方針を発表しました。
一括払いは、実質的な土地買い上げ政策でした。
これに対して琉球政府立法院は、同年4月30日に全会一致で「軍用地
処理に関する請願」を可決しました。
それが後に、一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対の
「土地を守る四原則」と呼ばれました。
その後、琉球政府行政主席の比嘉秀平ら四者協議会が土地問題折衝
のため渡米し、対米交渉を行い、その要請に基づき1955(昭和30)年
10月23日、米下院軍事委員会のプライス調査団が沖縄に派遣され
ました。
この調査団が議会に提出した報告書が「米国政府下院軍事委員会
特別分科委員会報告書」、いわゆるプライス勧告です。
一括払い反対、新規接収反対などの土地を守る四原則に基づく沖縄側
の要求に対し、同勧告は、軍用地料の算定に譲歩したにすぎず、主要な
点は聞き入れなかったものでした。
プライス勧告の全文が沖縄に届いた6月20日、全沖縄64市町村のうち
56市町村で一斉に市町村民大会が開かれ、多くの住民が参加しました。
1956(昭和31)年6月以降、沖縄では住民の激しい抗議活動が行わ
れ、やがて島ぐるみ闘争へと発展しました。
6月25日に第2回住民大会が那覇とコザ(現沖縄市)で開かれ、計15万人
もの人びとが集まりました。
米軍は、軍人の安全を理由にオフリミッツ(立ち入り禁止令)を発令しまし
た。米軍相手に商売を営む民間地への立ち入りを禁止することで住民側は
経済的窮地に立たされました。
しかし住民の抵抗運動はその後も続き、やがて米国側は、軍用地料
の一括払いの方針を撤回し、適正価格で土地を借用するとすることで、
島ぐるみ闘争を終結に導きました。
土地問題は経済的な妥協によって決着しましたが、米国の政策を一部
変更したことは沖縄住民にとって大きな自信となり、祖国復帰運動へと
つながりました。
注2 米民政府:
「琉球列島米国民政府」のことで、アメリカ軍が沖縄に設けた統治機構
です。
米民政府は、琉球政府の上部組織であり、アメリカ軍の意向に沿った
政治を、琉球政府に行わせるための命令機関でした。
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このように、
アメリカ側にたいして、島ぐるみの闘争を行わなければ、自分たちの
土地の所有権でさえ、奪われかねない状況であったこと。
これも、沖縄の人々が「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、原因
の1つと考えられます。
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申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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