現代の罪人(つみびと   2003年6月15日 寺岡克哉


 私は、「律法」という非合理的な数々の「掟」に苦しめられていた、2千年前のユダ
ヤの人々・・・ つまり、「罪人(つみびと)」のことを思うたびに、「現代の日本にも、
罪人はいるのだ!」
という思いに駆られます。

 ところで、この「罪人(つみびと)」とは、いわゆる刑事事件を起こした犯罪者のこと
ではありません。
 「律法」に記された数々の掟や、神殿での祭式、会堂での礼拝、日常生活のさま
ざまな戒律を守らない者のことです。
 その一例として、例えば律法には、「安息日」の掟がありました。「安息日」とは、
週に一度、金曜日の夕方から土曜日の夕方までのことで、休息を義務づけられて
いる日のことです。
 「安息日」には、何も仕事をやってはいけませんでした。書くことも、物を運ぶこと
も、旅行をすることも禁じられていました。移動は1キロメートルを超えてはならず、
命に危険がある場合を除き、人を助けてもいけませんでした。
 2千年前の当時、この「安息日」の掟はかなり厳しいものでした。そして、このよう
な細かな掟を一つでも守らなかっただけで、「罪人」とされてしまうのでした。
 また、徴税人や、娼婦などの卑しい職業の者や、らい病や皮膚病などの病気にか
かった人々も、罪ある者とされました。さらには、夫のいる女性が不倫をはたらいた
場合の罪は大変に重く、石を投げられて打ち殺されました。
 このように「罪人」とは、非合理的な掟を無理やりに押しつけられて苦しんでいる
人々や、理不尽な差別を受けて苦しんでいる人々のことです。
 (ところで、徴税人が「罪人」とされたのは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国
のために税金を徴収したため、ユダヤ人の反感の買っていたからです。)

 しかしながら、以上のようなことを、「愚かな昔の人間がやったことだ!」など
と笑ってはいられないのです。なぜなら、これと似たようなことが、ユダヤの地
から遠く離れ、しかも2千年も経った「現代の日本」で起こっているからです。

 例えば・・・
 不登校や引きこもりの人々。
 リストラや倒産で失業した人々。
 そして、過労死や過労自殺をするまで、働き続けてしまう人々・・・。

 このような人々は、法律に触れるような犯罪を犯した訳ではありません。それなの
に、不当に「罪の意識」に苦しめられているのです。これらの人々は、「現代の罪人」
といえる人たちではないでしょうか?
 例えば、万引きや、未成年者の飲酒喫煙、車の酒酔い運転、スピード違反、等々。
これらは、法律に触れるれっきとした犯罪行為であり、本当はこちらの方が罪は重
いはずです。しかしながら、不登校や引きこもりや失業をした人々は、これらの犯罪
者には及びもつかないほどの、大きな「罪の意識」に苦しめられるのです。

 「学校に行かなければならない!」
 「会社に行かなければならない!」
 「会社から追い出されてはならない!」
 「社会に適応しなければならない!」
 これらの「社会的な掟」に縛られ、その掟をどうしても守ることが出来ないために、
「罪の意識」を感じて苦しむのです。
 そしてさらには、「世間体」という社会的な差別も受けて苦しめられます。それが、
「現代の罪人」なのです。

 ところでキリストは、「安息日は人のためにあるのであって、安息日のために人が
あるのではない!」と、いうような意味のことを言っています。
 さしずめ現代の日本においては、
 「学校は人のためにあるのであって、学校のために人があるのではない!」
 「会社は人のためにあるのであって、会社のために人があるのではない!」
あるいは、
 「経済の発展は人間のためにあるのであって、経済の発展のために人間がある
のではない!」
 というのが、良く当てはまりそうです。また、例えば戦前の日本ならば、
 「国は人のためにあるのであって、国のために人があるのではない!」
 というのが、良く当てはまりそうです。そういえば、学校や会社へ通うことが出来
なくなった人間を、「現代の非国民」とでもいうような目で見る風潮が、存在しては
いないでしょうか?

 現代の日本には、その他にも数々の「非合理的な掟」が存在します。そしてそれ
が、人々に「いらぬ苦しみ」を与えています。
 例えば・・・
 顔が美しいこと。
 太っていたり、痩せ過ぎていないこと。
 背が高すぎたり、低すぎたりしないこと。
 口臭や、体臭が匂わないこと。
 性格が明るく、話し上手であること。
 異性にもてること。
 髪型や化粧やファッションが、流行に乗り遅れていないこと。
 有名ブランド品を持っていること。
 一流大学を卒業していること。
 一流企業に就職し、高収入であること。
 結婚し、子供がいること。
 ゴルフやスキー、テニスが出来ること。
 車や家を持っていること。
 ・・・・・・。
 ・・・・・・。

 これらはほんの一部であり、現代人を苦しめている数々の「掟」は、まだまだ無数
にあります。それらを全て守り、誰からもクレームをつけられないようにしようと思っ
たら、気が狂ってしまうほどです。
 2千年前のユダヤの人々にも、ちょうど同じようなことが起こっていました。そして、
そのような状態から人々を解放してくれたのが、キリストなのです。
 キリストは、無数の掟を形式的に守ることが人間本来の生き方ではなく、
「愛の実践」が、人間本来の生き方なのだと説きました。

 「愛の心」を常に保ち、全ての人に対して思いやりの心を持つこと。
 そして、困っている人や、助けを求めている人がいたら、出来るかぎり助けてあげ
ること。
 このように、「愛の動機」のもとに日々の生活を行なえば、必然的に悪を行うはず
がなく、それで全ての掟も守っていることになる。と、キリストは説いたのです。

 私は、キリストのこの教えが、現代でもそのまま通用すると思うのです。
 他人に対して、「思いやりの心」を持つこと。
 そして、困っている人がいたら、自分の出来る範囲で助けてあげること。
 この二つを守り、人の道からはずれることさえしなければ、「いらぬ罪の意識」に
苦しむ必要などないのです。

 世間に蔓延している「無数の掟」を、全て守ることなど絶対に不可能です。
そんなことに躍起になれば、精神がおかしくなるだけです。
 各自の出来る範囲で「愛の実践」を行えば、他人に負い目を感じる必要は
ありません。あとは全く安心して、毎日の生活を過ごせば良いのです。



                  目次にもどる