沖縄の基地問題 6
2015年5月3日 寺岡克哉
私は、以前から感じていたのですが、
沖縄県の人々は、その他の都道府県の人々にくらべて、
「アメリカ軍への敵対心」が、ずいぶん大きいように思います。
たしかに日本の本土でも、
アメリカ軍の焼夷弾や、さらには原子爆弾によって、たくさんの人々
が殺されました。
しかしながら現在では、「アメリカ軍への敵対心」が、ほとんど残って
いません。
ところが沖縄では、
いま現在でも、「アメリカ軍への敵対心」が、ずっと残り続けている
ように感じてならないのです。
それは一体、なぜでしょう?
このことを理解するためには、沖縄の人々が、アメリカ軍からどんな
「仕打ち」を受けてきたのか、調べてみる必要があると思いました。
なので今回は、そのことについてレポートしたいと思います。
* * * * *
まず第1に・・・
1945年の3月26日に開始された「沖縄戦」によって、
沖縄の人々と、アメリカ軍との、長い長い「敵対関係」が始まりました。
この「沖縄戦」は、ものすごく激しい戦いとなり、日本側の死亡者は
18万8136人とされています。
ところが、そのうちの、
およそ半数にあたる9万4000人が、「民間人」つまり沖縄の一般住民
だとされているのです。
これら、殺害された沖縄の一般住民の人々のうち
集団自決や、日本軍によって殺された人々は、それぞれ1000人ほど
で、合計2000人程度だと推定されています。
だから残りの、
およそ9万2000人もの、沖縄の一般住民の人々が、連合軍(主に
アメリカ軍)によって殺されたことになります!
しかも、その「殺され方」が、じつに残酷なもので、
たとえば、2004年8月28日付けの長周(ちょうしゅう)新聞によると、
以下のように記述されています。
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(米軍は)沖縄にわずか2カ月足らずで51万発の艦砲弾と177万発の
野砲・重砲弾を撃ちこんだ。
1日7万5000発以上の砲弾の嵐のなかでは弾にあたらない方が
まれで、生き残ったものが「艦砲の食い残し」といわれるほどだった。
沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここ
は丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦斗
員まで殺害した。
嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは
人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を
1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。
国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令
官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になっ
た住民のうち男子は全員銃殺された。
南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死
者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
中部の住民十数万人は戦火を逃れて南部に逃げたため、沖縄南部は
30万人の住民と日本軍が集結していた。これに米軍は海上から艦砲
射撃、地上では火炎放射器で壕を焼き払った。
さらに南端の喜屋武岬にいたる原野のカヤやススキのうえにガソリンを
空からまき、その上に焼夷弾を落とし焼き殺した。
南部では1坪あたり20発ぐらいの砲弾を投下した。沖縄本島の住民を
3人に1人の確率で殺し、島尻に逃げた人人のなかでは2人に1人が
命を落とした。
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以上のように、
爆撃だけでなく、毒ガス、火炎放射器、銃殺など、
「殺す側の人間が直接見える形」で、たくさんの「一般住民」の人々
が殺されたこと。
まずそれが、
「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、1つの原因ではないかと、
私は考えています。
* * * * *
そして第2に、
アメリカ軍によって占領された場所には、降伏した日本兵を収容
するための「捕虜収容所」とは別に、
「民間人収容所」というのが作られて、一般住民の人々であっても、
収容されてしまったのです。
とくに沖縄本島では、
アメリカ軍の基地建設のために、中部や南部地域の「無人化政策」
がとられ、
一般住民の人々は、北部東岸にある収容所へ「強制移住」をさせら
れました。
そのため、宜野座地区の収容所には、
生き残った島民の3分の2にあたる、20万人以上もの人々が押し
込められて、
ものすごく過密な状態となりました。
しかも、 このような「民間収容所」は、
食糧や医療などの状態が、けっして万全ではなく、
飢え、負傷、マラリアなどで、老人や子供たちが次々に死んで行った
といいます。
以上のように、
ものすごく多くの「一般住民」の人々が、強制的に収容所へ送り込まれ
たこと。
これも、「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、原因の1つだと考えら
れます。
* * * * *
第3に、
民間収容所や、アメリカ軍の占領地域では、
アメリカ兵による、一般住民への暴行、強姦、強盗行為などが多発
しました。
無抵抗の一般住民を、背後から射殺するなどの虐殺行為が報告され
ており、
一般住民の女性への、拉致や暴行、強姦などの証言も、多数あり
ます。
戦時中には、戦局で日本側が追い詰められた状態になると、
アメリカの軍隊そのものが、集団で村の女性たちを襲ったといいます。
なかには、夫の目の前で犯された女性もいます。
戦争が終結してからも、アメリカ兵による暴行は続いており、
南部戦線の戦闘が終結してからは、とくにアメリカ兵たちが横暴になっ
て、昼夜を分かたず強姦事件が頻発するようになりました。
民間収容所では、アメリカ兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたた
いて女性たちを避難させるさわぎが続いたといいます。
アメリカ兵によって強姦された女性数を、10000人と推定する見解も
存在しています。
このような、アメリカ兵の残虐行為について、
2004年8月28日付けの長周新聞には、以下のように記述されて
います。
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沖縄を占領した米軍は「解放軍」のように宣伝したが、やったことは
強姦、強盗など鬼畜のような蛮行だった。
沖縄戦さなかの45年5月には、旧首里市役所職員古波蔵保知氏
(38歳)と2人の男性が国頭の山中の避難小屋の付近で米兵に腹を
切り裂かれて殺された。
古波蔵氏は首里の避難民を引率して疎開中、若い女性が米兵に追わ
れて逃げてきたところに直面した。米兵はいったん引き返したが、その後
約30人の武装米兵が避難小屋を襲撃。そして古波蔵氏ら3人の男を
河原に引っぱっていき、自動小銃で射殺。
米兵が引き揚げたのち、同じ小屋に避難していた婦人が河原におりて
みると3人は腹を裂かれていた。
米兵が、壕に隠れていた男たちを追い出し、救うようなふりをしてタバコ
を与えて背後から射殺したり、隠れていた穴から飛び出してきた国民学校
の生徒を射殺したことも目撃されている。
食糧確保のため離島に渡った若い娘が米兵に追われ射殺されたり、
妻子に乱暴しようとした米兵をいさめた夫を米兵が連れ出して射殺したり、
米兵が来るまえに女性を逃がしてやった村人を正座させたまま射殺する
など蛮行のかぎりをつくした。
本部半島のある部落では海兵隊上陸直後に部落中の婦人が米兵に
襲われた。男が戦争にかり出され、女、子ども、老人しか残っていない
ところを狙った蛮行だった。
米兵の婦女暴行事件は戦火がやみ、米軍の支配下におかれてますます
ひどくなり、多くの混血児が生まれた。
夜になると鉄条網がはられ逃げられない収容所を米兵の集団が襲って
「娘狩り」をくり返すため、そのたびごとに酸素ボンベを打ち鳴らして女性
たちを逃がす状態だった。
米兵から襲われて殺されたり、混血児を産まされた証言はきわめて
多い。
米兵の犯罪は戦後もへることはなかった。
とくに射殺、刺殺、撲殺、強姦といった残虐な方法の殺害がめだった。
傷害も強姦傷害、婦女暴行傷害、発砲による傷害が多く、真先に被害
を受けるのは婦女子であった。
沖縄での米軍人・軍属による刑事事件は53年から71年までの
18年間だけで1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)に
のぼる。それは毎日2~3件という頻度。
施政権が日本に返還された72年から95年の23年間だけでも
検挙された沖縄の米兵犯罪は4657件にのぼっている。
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以上のように、
アメリカ兵による、拉致、暴行、強姦、強盗、そして虐殺が横行した
こと。
そして、そのような「アメリカ兵による犯罪」が、沖縄が返還された後、
近年においても発生していること。
これらのことも、「アメリカ軍への敵対心」を増大させた、原因の1つと
考えて間違いないでしょう。
* * * * *
申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。
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