沖縄の基地問題 5
2015年4月26日 寺岡克哉
前回では、
鳩山・元首相が、沖縄県にあるアメリカ軍・普天間基地の「県外移設」
を断念し、辺野古移設を阻止できなかった原因として、
●最初から「県外移設」の具体的な見通しがたっておらず、「戦略性」
に欠けていたこと。
●鳩山政権において、首相と、外務相や防衛相との意思疎通がギク
シャクとしてしまい、県外移設の方針で一枚岩ではなかったこと。
の、2点について見てきました。
今回は、その続きです。
* * * * *
さて一方、日本の役人。
つまり、外務省や防衛省の「官僚」たちは、これまで行なってきた外交
政策を「変えたくない」という態度がつよく、
外交についての「新しい発想」を打ちだす鳩山政権にたいして、とても
大きな「不信感」を持っていました。
たとえば、外務省の斎木・アジア大洋州局長は、
鳩山内閣発足直後の2009年9月18日に、訪日したキャンベル国務
次官補にたいし、
政権首脳たちは日米対等の関係を訴えるが「既に対等なのに何が念頭
にあるのか分からない」
「民主党は官僚を抑え、米国に挑戦する大胆な外交のイメージを打ち
出す必要を感じたようだ」
という分析を述べて、「愚か」と批判しました。
また、外務省の薮中・事務次官も同日。
キャンベル国務次官補にたいし、「国内には日本が対等に扱われていな
い、という感覚があり、民主党はそれを政治的に利用した」
と、説明しています。
そして、2009年10月12日。
防衛省の長島・政務官が、来日していたキャンベル国務次官補と防衛省
で会談をしましたが、
その折に、高見沢・防衛政策局長が非公式な昼食の席で、
「米政府は、民主党政権に受け入れられるように再編パッケージに調整を
加えていく過程で、あまり早期に柔軟さを見せるべきではない」
と、述べたといいます。
さらには、2009年12月10日。
アメリカ在日大使館の政務担当者が、日本政府の国連代表部で政務担当
を務める参事官たち3人の外務官僚と会ったのですが、
その場で外務官僚たちは、「鳩山政権の普天間移設問題での対応と政治
利用」への不満を述べ、
「米政府は普天間移設問題では民主党政権に対して過度に妥協的で
あるべきでなく、合意済みのロードマップについて譲歩する意思があると
誤解される危険を冒すべきでない」
と、強調したといいます。
このように、日本の外務省と防衛省の官僚たちは、外交政策にたいする
「新しい発想」を、受け入れようとしない態度が強かったのですが、
これに関連して鳩山・元首相は、2011年の1月と2月に行われた共同
通信のインタビューで、
「(新しい発想を受け入れない土壌は)本当に強くあった」
「私のようなアイデアは、一笑に付されていたところはあるのではないか」
「本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国
との間のベース(県内移設)を大事にしたかった」
「官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦って行くから
情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になっ
た」
「極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと」
「自民党(政権)時代に相当苦労して(県内移設という)一つの答えを出し
て、これ以上はないという思いがあり、徐々にそういう方向に持っていこう
という意思が働いていたのではないか」
「彼らが米国と交渉すると、信頼するしかない。これ以外ない、これ以上
は無理だとなった時に、その先を進めることはなかなかできなかった。自分
自身の力量が問われた」
「防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十
年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。動かそうとしたが、元に
舞い戻ってしまう」
と、述べています。
以上のことから、
外務省や防衛省の協力を得られなかったことも、「県外移設」を断念せざ
るを得なかった原因の1つだと言えます。
* * * * *
そして!
鳩山・元首相は、「県外移設」の候補地として、鹿児島県の徳之島を
検討していたのですが、
徳之島移設の可能性が閉ざされたことにより、県外移設の断念が
決定的となりました。
その経緯は、およそ以下のようです。
まず2010年の3月ごろから、移設候補地として徳之島が浮上した
ため、徳之島では「反対集会」が相次いで開かれるようになりました。
とくに、4月19日に開かれた集会では、1万5千人が集まったといい
ます。
4月28日に鳩山首相は、徳之島出身の元衆院議員・徳田虎雄氏と
会談し、移設案への協力を要請しました。が、しかし、理解を得ることが
できませんでした。
そしてついに、5月4日。
鳩山首相は、沖縄を訪問して仲井眞知事と会談し、日米同盟の関係
の中で抑止力を維持する必要があるとして、
「沖縄の人々におわび申し上げないといけない」
「(選挙前に掲げた)すべてを県外にというのは現実問題として難しい」
と述べて、県外移設の「断念」を明らかにしたのです。
このことについて、鳩山・元首相は、共同通信のインタビューで以下の
ように述べています。
「(県内移設の最終判断は)徳之島をあきらめざるを得ないと結論を
出した時」
「4月28日に(元衆院議員の)徳田虎雄氏と会い、(理解を得られず)
完全に徳之島が閉ざされた」
「沖縄と日本政府と米国との3者が協議機関をつくり、政府原案を議論
する舞台ができれば乗り切れると思った」
「(しかし)5月に仲井真知事と2回目に会った時に、知事選までは(3者
協議は)できないと言われ、沖縄の理解を得るところまで行かなかったと
基本的に観念した」
* * * * *
ところで、
しかしながら、なんと言っても、沖縄のアメリカ軍基地の問題については、
当のアメリカ自身の動向が、いちばん大きく影響しているのは確かです。
そのことに関連して鳩山・元首相は、
共同通信のインタビューで、「反省点」として以下のように述べています。
「相手は沖縄というより米国だった」
「最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった」
「これしか(県外移設しか)あり得ないという押し込んでいく努力が必要
だった」
「オバマ氏も今のままで落ち着かせるしか答えがないというぐらいに
多分、(周囲から)インプットされている」
「日米双方が政治主導になっていなかった」
* * * * *
以上、前回から引きつづき、
鳩山さんが、「日本の首相」という地位にあったにもかかわらず、
普天間基地の「県外移設」を、断念せざるを得なかった原因について
見てきました。
それらをまとめると、以下のようになります。
●最初から「県外移設」の具体的な見通しがたっておらず、「戦略性」
に欠けていた。
●鳩山政権において、首相と、外務相や防衛相との意思疎通がギク
シャクとしてしまい、県外移設の方針で一枚岩ではなかった。
●外務省や防衛省の「官僚」たちは、鳩山政権に「不信感」を抱いて
おり、「県外移設」への協力を拒(こば)んだ。
●「県外移設」の候補地として、鹿児島県の徳之島を検討していたが、
その可能性が閉ざされてしまった。
●そもそもアメリカ側の姿勢が、従来の日米合意による「県内移設」を
支持しており、それを変えようとはしなかった。
以上のことから、
十分な戦略を持たず、閣僚、官僚、移設候補地(徳之島)、そしてアメ
リカとの協力関係を築くことができなければ、
たとえ「日本の首相」といえども、普天間基地の「県外移設」は、とうて
い不可能だったことが分かります。
しかしながら、
それまで「県内移設しかない」と、半(なか)ば諦(あきら)めていた
沖縄県の人々にたいし、
鳩山・元首相が、「県外移設を模索する可能性」を示したことは、
いま現在の「基地反対運動」にも、脈々(みゃくみゃく)と繋(つな)がっ
ており、
けっして無駄なことでは、なかったように思います。
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