沖縄の基地問題 4
                             2015年4月19日 寺岡克哉


 4月17日。

 安倍首相が、沖縄県の翁長知事と、首相官邸で会談をしました。



 この中で、安倍首相は、

 「普天間基地の一日も早い危険性の除去は、われわれも沖縄も
思いは同じであろうと考えている」

 「一歩でも二歩でも進めていかなければならないという中では、
辺野古への移転が唯一の解決策だ」

 「これからも丁寧な説明をさせて頂きながら、理解を得るべく努力を
進めていきたい」

 と述べ、普天間基地の危険除去に向けて、辺野古移設への理解
を求めました。



 これに対して、翁長知事は、

 「政府は、普天間基地の”県外移設”という公約をかなぐり捨てた」

 「仲井真・前知事が、埋め立てを承認したことを錦の御旗として辺野
古移設を進めているが、」

 「去年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院選挙で、辺野古
への新基地反対に圧倒的な民意が示された」


 と、述べています。その上で、


 「沖縄はみずから基地を提供したことは一度もない」

 「(強制接収で)土地を奪っておきながら、(普天間飛行場は)世界一
危険だ、(辺野古移設が)いやなら代替案を出せと言う」

 「こんな理不尽なことはない」


 と述べました。さらに、翁長知事は会談の中で、


 「私は絶対に新基地を造らせない」

 「沖縄県民は移設計画に明確に反対しているということを、アメリカ
のオバマ大統領に伝えていただきたい」

 と述べて、辺野古への移設計画を撤回するように求めています。



 このように、

 会談前から予想されたことですが、やはり議論は平行線に終わり、

 国と沖縄との溝の深さが、あらためて浮き彫りになる結果となって
しまいました。


             * * * * *


 ところで・・・ 

 私の気持ちを、正直に申し上げれば、

 普天間基地を、辺野古へ移設する計画を「阻止」することは、

 ものすごく難しいのではないかと感じています。



 というのは、

 2009年の衆議院選挙のとき、鳩山由紀夫・民主党代表が、

 普天間基地の移設先は、「最低でも(沖縄)県外」と宣言し、

 民主党が選挙に勝利して、鳩山さんが首相に就任したにもかか
わらず、

 結局その後、鳩山首相は、県外移設を断念してしまったからです。



 つまり、日本の首相でさえ、

 辺野古移設の計画を阻止することが、出来なかったわけです。




 いわんや、現在の状況は、

 安倍首相自身が、辺野古移設を「予定通りに進める」という立場
です。

 だから、なおさら、

 辺野古移設の計画を阻止するのは、ものすごく難しいのではないか
と、感じている次第なのです。


            * * * * *


 しかし、それにしても・・・ 

 日本の首相でさえ、辺野古移設の計画を阻止できなかったというのは、

 いったい、どんな経緯(いきさつ)や、どんな圧力などが、あったので
しょう?

 今更ながらですが、

 そのことが少し気になったので、調べてみることにしました。



 ちなみに、

 鳩山さんが首相に就任したのは2009年の9月で、首相を辞任した
のは2010年の6月ですが、

 その後、鳩山・元首相は、

 2011年の1月と2月に、共同通信とのインタビューに応じて、普天間
基地の移設問題に取り組んでいた当時の、「思い」を語っています。



 以下、そのときのインタビュー記事を参考にしながら、

 当時の鳩山首相が、辺野古移設の計画を阻止できなかった原因に
ついて、

 探(さぐ)っていきたいと思います。


             * * * * *


 まず、

 2009年8月の衆議院選挙のときに、民主党の鳩山代表は、

 普天間基地の移設先は「最低でも県外」と宣言しました。



 その当時のことについて、鳩山・元首相は、

 「民主党は沖縄ビジョンの中で、過重な基地負担を強いられている
沖縄の現実を考えた時に、県民の苦しみを軽減するために党として
”最低でも県外” と決めてきた」

 「鳩山個人の考えで勝手に発言したというより、党代表として党の
基本的考えを大いなる期待感を持って申し上げた」

 「見通しがあって発言したというより、しなければならないという使命
感の中で申し上げた。しっかりと詰めがあったわけではない」

 と、語っています。



 つまり、まず第一に、辺野古移設の計画を阻止できなかった原因と
して、

 「最低でも県外」と宣言したものの、最初から「具体的な見通し」は
立っておらず、

 「戦略性」が欠如していたことを、鳩山・元首相は明かしています。


            * * * * *


 また、

 鳩山政権のときの岡田克也・外相も、最初は「県外移設」を模索して
いましたが、

 アメリカ側との交渉を重ねるにつれて、県外移設が困難であるという
意見に傾いていき、

 2009年の9月には、「事実上、県外というのは選択肢として考えら
れない状況である」と明言するまでになりました。



 さらに岡田外相は、2009年11月の衆議院予算委員会で

 「公約というのはマニフェストです。ですから、総理も、望ましいという
言われ方はしました。私たちも、それは県外、国外移転ができれば望ま
しいという思いは強くあります」

 「しかし、あえてマニフェストの中では普天間という言葉も書きません
でしたし、”米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向
で臨む”という表現にとどめたわけですから、そこは違うということを、
我々の公約というのはこのマニフェストですから、私たちの思いの話と
公約、マニフェストの話、それをあえて混同して、そして質問されるのは
私はおかしいと思います」

 という答弁をして、普天間基地の県外移設は、政権公約(マニフェスト)
ではないと強調しています。



 このことに関連して鳩山・元首相は、後日(2011年の共同通信の
インタビューで)、

 「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に”県外”とまで
書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を
中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出す
べきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった」

 と、語っています。



 そして、さらには、

 当時の北沢・防衛相も、「県外移設の困難さ」を指摘するようになって
いましたが、

 これに関連して後日、鳩山・元首相は共同通信のインタビューで

「北沢俊美防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられ
るか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった
気がする」

 と、語っています。



 これらのことから、

 首相と、外相や防衛相との間で、意思疎通がギクシャクとしており、

 鳩山政権が、普天間基地の県外移設で「一枚岩ではなかった」ことが
分かります。

 このことも、辺野古移設の計画を阻止できなかった原因の1つです。


             * * * * *


 申し訳ありませんが、この続きは次回でレポートしたいと思います。



      目次へ        トップページへ