「盲目的な信仰」と「理性的な精神」
2003年6月8日 寺岡克哉
人類の歴史を眺めてみると、「盲目的な信仰」の時代と、「理性的な精神」の
時代が、交互に繰り返されているように思えます。
それはつまり、こう言うことです。
まず最初に、人類にとって何か有益な思想(や概念)が成立したとします。すると、
みんながその思想を採用するようになります。
みんなが採用しだすと、後は何も考えずに安心して、その思想を信じるようになり
ます。そして、誰もその思想に対して批判を加えなくなります。
こうして徐々に、「盲目的な信仰」へと陥って行くのです。
盲目的な信仰に陥ると、その思想に対する批判が皆無になります。そして、恣意
的で自分勝手な「思想のねじ曲げ」が横行するようになります。
そうすると、その「歪められた思想」は人類にとって有益でなくなり、逆に、人々を
苦しめるようになるのです。
人々が苦しみだすと、「問題意識」が生じます。そして再び、みんなが色々と考える
ようになります。つまり、「理性的な精神」が生まれるのです。
そして「理性的な精神」が、「盲目的な信仰」に対して批判を加えるようになります。
やがて新しく、人類にとって有益な思想(や概念)が成立するのです。
私は、宗教も科学も経済も、人類のありとあらゆる営みが、そのような流れに沿っ
ているように思うのです。
このような現象は、洋の東西や時代を問わず、色々な所で起こっています。しかし、
「現代の物質科学文明」に至る、いちばん大ざっぱな歴史の流れは、だいたい次の
ようだと思います。
〜1世紀 ユダヤ教の形骸化 (盲目的な信仰)
1世紀 キリスト教の成立 (理性的な精神)
〜17世紀 キリスト教の形骸化 (盲目的な信仰)
17世紀 近代科学の成立 (理性的な精神)
〜現代 科学の形骸化 (盲目的な信仰)
以上のように、人類の歴史を非常に大ざっぱに眺めると、「盲目的な信仰」の時代
と、「理性的な精神」の時代を、交互に繰り返しているのが分かります。
次に、これらについて、もう少し詳しく見て行きたいと思います。
紀元1世紀・・・ 紀元前6世紀ごろに成立したユダヤ教も、長い年月が経つうちに
形骸化し、盲目的な信仰と、教条主義に陥っていました。
人々は、「律法」という「何百もの掟」に縛りつけられ、苦しんでいたのです。
その時代、人々の価値観や生活のしきたりなどが、「律法」によって細かく定めら
れていました。そして、「律法」に背いたものは「罪人(つみびと)」とされ、厳しく罰せ
られたり、社会的な差別を受けたりしました。
しかし、何百にも定められた「律法」を全部守ることなど、ほとんど不可能に近かっ
たのです。人々は文字通り、身も心も律法に支配され、苦しんでいました。
そのような時代にキリストが現れ、「理性的な精神」に則った思想を説き、形式
的な教条主義を排したのです。
キリストは、「形式的な掟」を守ることが人間本来の生き方ではなく、「神と隣人へ
の愛」(つまり、万人に対して差別のない、理性的な愛)を規範にして、人間は生き
なければならないと説きました。
そして病人や、体の不自由な人に対して、思いやりの心を持つこと。女性や、卑し
い身分の者や、異民族を差別しないこと。それらのことを、自分の行動をもって示し
たのです。
「愛」という万人に共通な価値観を規範にし、また、異民族を差別しなかったので、
キリストの教えは世界中に広がりました。
しかしながら、客観的で理性的だったキリストの教えも、千年もの長い年月が経つ
うちに形骸化し、盲目的な権威主義に陥って行きました。
教会の権威が異常に高まり、「キリストの教え」はねじ曲げられ、宗教戦争(十字
軍)が起こりました。異邦人でも憎まず、「敵を愛せ!」というキリストの教えからは、
想像も出来ないことです。
人々は、教会の権威に対する盲目的な信仰を強要され、「人間の理性的な精神」
は抑圧されて行きました。「暗黒の中世」と呼ばれるゆえんです。
それに反発するかのように、14世紀から16世紀にかけて、人間性を回復しよう
とする運動(ルネサンス)が起こりました。
その時流の中で、自然現象を客観的に観察し、分析しようとする、「科学的精神」
が生まれたのです。レオナルド・ダ・ビンチ、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、
デカルト、ニュートンなどが現れ、17世紀には近代科学が成立しました。
再び、「理性的な精神」の時代がやって来たのです。
その後、科学は大いに発展し、18世紀から19世紀に起こった「産業革命」を経
て、「科学」と「経済」が融合した「物質科学文明」が誕生しました。
20世紀になると「物質科学文明」が大発展し、先進諸国の人間は、かつてない
ほど豊かになりました。そして誰もが、科学技術と経済の発展が人類を幸福にする
と、無条件に信じて疑わなくなりました。
つまり、科学技術と経済に対する、「盲目的な信仰」が生まれたのです。
その結果、「人間性」よりも、科学技術と経済の発展が優先されるようになりまし
た。人間を、機械と同じ「消耗品」として扱うようになり、「人間性」がどんどん喪失し
て行きました。
(現代の無慈悲なリストラや過労死もさることながら、「第二次世界大戦」が、人
間を機械と同じ「消耗品」として扱った、いちばん酷い例です。)
また、「人間の本質」や「人間存在のあり方」といった問題までをも、唯物論や機
械論(脳の構造や、脳内化学物質)で解決できると、多くの人が信じています。
そして「人間の心」を、化学物質(薬物、ドラッグ)で操ろうとする試みが流行って
います。
現代社会の「諸々の生き苦しさ」は、科学技術と経済(つまり物と金)への、盲目
的な信仰による「人間性の喪失」に、その根本原因があるのです。
しかし21世紀になった現在、物と金に対する「盲目的な信仰」の時代は、
そろそろ終息する方向に、向かいつつあるように思います。
これからは徐々に、「人間性の回復」を主眼とする「理性的な精神」の時代
へ、向かって行くのではないかと思います。
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